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第五章「カーテンの裏の『LOAD』」
保健室のベッド。
閉め切られたカーテンの内側は、僕と河合さんだけの、息苦しいほどに狭い世界だった。
消毒液の匂いに、彼女のシャンプーの匂いが混じる。
彼女が突きつけてきたA4の紙。
そこに書かれた『LOADに聞かれてる』という不器用な文字が、僕の網膜に焼き付いていた。
部室の盗聴器、食堂の視線、彼女の「SOS」。
すべてが、この一言で繋がった。
僕は、ゆっくりと息を吸い込み、彼女からペンを受け取った。
カリ、と乾いた音が、静寂の中でやけに大きく響く。
『LOADって……父さん(総理)が言ってた、あの組織か?』
彼女は、僕の書き込みを見て、こくりと頷いた。
その青い瞳は、もはや「ばぶう」と叫んでいた少女のそれではない。冷徹な覚悟を宿した、戦士の目だ。
彼女はペンを受け取ると、迷いなく紙の余白を埋めていく。
『LOADは全米魔術協会Reやアメリカ合衆国と三角貿易してる。麻薬や魔法使いの武力についてね』
僕は、その内容を理解するのに数秒を要した。
なんだ……それ。
陰謀論だと、父さんの支持率稼ぎのパフォーマンスだと、今朝まで笑っていたじゃないか。
厨二病の僕の妄想を、現実が、それも最悪の形で上回ってきた。
これが本当なら、アメリカだけでなく、日本を含めた西側陣営もLOADに汚染されるのも時間の問題だ。
父さん、なんとかしてくれよ。内閣総理大臣なんだから。
……いや、待て。
父さんは、これを「知ってて」戦おうとしていたのか?
僕が混乱していると、河合さんはさらに紙を裏返し、何かを書きかけた。
だが、その手が、一瞬止まる。
彼女は迷うように俯き、やがて、書いた文字をぐちゃぐちゃと黒く塗りつぶした。
そして、代わりにこう書いた。
『危険すぎる。カオルくんは、忘れて』
僕は、その文字を睨みつけた。
(……忘れて?)
ふざけるな。
僕がどれだけ厨二病の妄想に生きてきたと思ってる。
いや、違う。
そうじゃない。
僕は、君の「SOS」を聞いたんだ。
僕は、彼女がペンを置く前に、その手を遮るように紙を押さえた。
そして、彼女の『忘れて』という文字のすぐ下に、強く書き込む。
『河合さんは、これを止めたいの?』
河合さんが、息を呑むのが分かった。
彼女は、驚いたように僕の顔を見た。
そして、数秒の逡巡の後――強く、頷いた。
彼女は、僕の手からペンを抜き取り、震える文字で書き加えた。
『手伝ってくれる?』
その問いかけは、僕の覚悟を試していた。
僕は、昨日までアメリカに逃げようとしていた男だ。
この顔のせいで歪んだ日常に飽き飽きし、すべてをリセットしようとしていた。
目の前にあるのは、厨二病の妄想とは違う、本物の「闇」だ。
関われば、死ぬかもしれない。
だが、僕は君を守るって決めたから。
僕は、迷わず、力強く頷いてみせた。
その答えを見て、河合さんの張り詰めていた表情が、ほんの少しだけ緩んだ。
まるで、ずっと一人で張り詰めていた糸が、ようやく少しだけ弛んだかのように。
彼女は、まるで自分に言い聞かせるように、紙に言葉を綴った。
『本当にありがと。』
『なら、まずは日常を演じないとね。そして、来月の文化祭の為に頑張ろう!!!』
その、あえて「!!!」を多用した明るい文字に、僕もフッと息が漏れた。
そうだ。僕らはまだ高校生だ。
戦うにしても、まずは「日常」という仮面を完璧に被り直さなくてはならない。
緊張が少し緩んだ、その隙間。
僕は、ずっと心の奥底で引っかかっていた、最大の疑問をペンに託した。
なぜ、僕の家の庭にいたのか。
なぜ、僕の顔を見て「ばぶう」と言ったのか。
『河合さん、言いにくいかもだけど、なんで河合さんは幼児退行するの?』
僕は、そう少し恥ずかしさと、何故か感じてしまう心の痛さを隠した。
そして、僕なりの優しい表情をして、彼女の答えを待った。
すると、河合さんはその質問を見て、一瞬、目を伏せた。
その表情は、悲しみとも、諦めとも、あるいは別の何かともつかない、複雑な色をしていた。
彼女は、ゆっくりとペンをベッドに置いた。
そして、カーテンの隙間から外(盗聴器)を警戒するフリをして、僕の耳元に顔を寄せた。
(……何を言うんだ?)
僕が身構えると、彼女は声帯を震わせない、息だけの声で囁いた。
「……ないしょ」
そして、彼女は勢いよくカーテンを開け放ち、保健室の明るい光を浴びながら、今度は声に出して(完璧な演技で)言ったのだ。
「内緒!!」
そう言って、彼女は天使のように、微笑んだ。
その笑顔を見て、やっぱり僕は、君を守りたいと思った。
だって、その笑顔に、僕は救われているのだから。
だが、この時の僕は気づけなかった。いや、気づいてあげれなかった。
河合さんが僕に紙を渡す前に、必死に消しゴムで消した、その言葉の痕跡を。
『……でも、カオル君の前でだけは、本当は…………』
その、彼女の心の底にある闇を。
そして、僕らが保健室を出ていくのを、窓の外の木の上から、一羽のカラスが見下ろしていたことにも。
そのどす黒く塗られたつぶらな瞳の存在に、気づかないまま。
序章完
(第一部 文化祭編へと続く)




