03
第三章「モールス信号と監視の目」
あれから、一ヶ月の時が経った。
僕と河合さんは、周りから完全にカップル認定されてきた。
「尾形くん、最近は鼻血出す子減ったわね。河合さんがいるから?」
クラスの女子にそう言われる程度には、僕の「イケメンによる厄災」は、河合さんという「例外」の存在によって中和されつつあった。
本当は、違うんだけどな。偽のカップルだ。
でも……なんかそれでもいい気がしてきた。
軸がブレブレだけど、今は少しぐらい、世間一般で言うような自然な感じじゃなくてもいい。僕らなりの自然な感じで、良い。
まずは、君の一番隣にいる友達として。
そして、彼女の意図はわからないが、彼女から提案された偽のカップルとして。
一目惚れした君と、僕は生きていく。
そして、これは夏休みの直前のある日のこと。
放課後、僕は部長を務める無線部の部室にいた。
薄暗い部室には、古い無線機や計測器が並び、独特の機械油の匂いがする。
僕は、ヘッドホンを耳に当て、練習用の音源を流していた。
ツーツーツー・トントントン・ツーツーツー
(……これがSOSか。あともうちょっとで無線大会があるから、覚えるのだるいなあ。ええっとこれはっと)
ここは、僕だけの聖域だ。
イケメンの僕が、唯一「尾形カオル」個人として没頭できる場所。
母が愛した……僕だけの宝物。
『何してるの? カオル君。カオルくーん』
「うわっ!?」
僕は椅子から転げ落ちそうになった。
いつの間にか、僕の後ろに河合さんがいた。
『……ああ。河合さんか。びっくりした』
「ごめんごめん。集中してたみたいだから」
河合さんは、僕が聞いていたヘッドホンを興味深そうに眺める。
『モールス信号……? やっぱり』
『やっぱりってなんだよ』
『ううん。やっぱり、私はカオル君を彼氏……じゃなくて、友達にして良かったなって』
『ん?……そうか。そりゃ僕もお前が傍にいてくれて良かったけど、やっぱりお前は不思議ちゃんだな』
『なんで?それと……ありがとね』
『うん。どういたしまして。……うーん。なんでって……そりゃあ、モールス信号できる人と出会えて良かったって言う女の子なんて珍しいから……普通サッカーとかだろ』
『ううん。ごめん……ごめんね。私……』
河合さんは、何か言いよどんだ後、こう続けた。
『全部最初から知ってたからね』
『何を?』
『ひ・み・つ』
『なんだよそれ』
『フフッ』
すると、河合さんは少し微笑んでくれた。
『でも、河合さん。君にしては珍しく照れてるな。もしかして、からかってるのか……え?』
『ううん』
……え??
河合さんは……僕の胸に、顔をうずめるように抱きついてきた。
柔らかい感触と、シャンプーの匂い。
僕の心臓が、鼻血が出るときとは違う理由で、激しく鳴り響く。
『河合……さん』
『友達として、異性として、これからも仲良くしようね』
『あ……ああ。もちろんだよ!』
『うん。ありがとう。君は私なんかの頭撫でてくれて、本当は彼女なんかじゃない私なんかのデートにも付き合ってくれて……。さっきだって……私なんかのこと必要って言ってくれた。私……”今の生活が幸せすぎて……もう嬉しくて嬉しくて』
今は……その言葉にはとても含みがあるように感じられた。
僕は彼女の人生にもしかしたら何かがあったのではないか、と思った。
何かとても辛いことが起こったんだって。
だからこそ、そんな彼女を僕は守りたい。
『僕は河合さんのこと……』
僕が自分でも制御しきれなくなり、その何かを言おうとした時、彼女はちゃんと止めてくれた。
『ありがとう。やっぱりカオルくん優しいね。でも、それはまた今度に取っておくよ。私達は、まだ出会って一ヶ月だもの。外面はカップルでも、まだ中身は友達でいようね?』
そう言った彼女の頬は、少し赤くなっていた。
『ねえ……カオルくん』
『ん?』
『よく聞いて』
彼女のトーンが、急に真剣なものに変わる。
そして、僕の胸に顔をうずめたまま、小さな声で、しかしはっきりとしたリズムで、こう言った。
『私に……ばぶばぶばぶおぎゃおぎゃおぎゃばぶばぶばぶ……して』
『?』
彼女は何に怯えている?
空気が、一瞬で張り詰めた。
怖くなってきた。
だけど、守らなくちゃ。
僕は河合さんを守らなくちゃ。
……?
うーん。
うーん?
にしても。
さっきのおぎゃあ、ばぶうのリズム……どこかで見たような……
いや、まさか。
でも、この張り詰めた雰囲気では、それ以外考えられない。
もしかして、さっきの『ばぶばぶばぶ(・・・) おぎゃおぎゃおぎゃ(―――) ばぶばぶばぶ(・・・)』って言葉の意味はモールス信号"で言うところの"SOS"だったんじゃないのか?
にしても……なんで赤ちゃん言葉なんかを暗号として。
――まさか。
この部屋で行われる話はすべて……盗聴されている?
だから……赤ちゃん言葉でモールス信号を打って、モールス信号に詳しい僕に真意を伝えている……のか?
いや、そんなことは……
ありうる……のか……??
そう思った僕は、反射的に窓の外を見た。
しかし、何も見えなかった。
そう。
何も……
あれ……
は……?
あそこの民家の陰に潜んでいるのは……誰だ?
あれは……人……か?
そして……上を見上げた。
天井の、隅。火災報知器の隣。
……なんだよこれ。
なんで……天井に小型録音機がこんなにもたくさん……付いてるんだよ。
こんなの小さすぎて気づかないよ。
それから、約2分間……僕はその場から動けなかった。
背筋を、冷たい汗が伝う。
僕らの「日常」は、最初から「誰か」の手のひらの上だった……?
そんな僕に、河合さんは、あえていつもの明るい声で言う。
抱きついていた腕をそっと離し、僕の手を引く。
『昼食を食べに行こっか。カオルくん』
僕は汗をダラダラ垂らしながら、頷くことしかできなかった。
――義理義理高校の食堂にて。
「このカレーコロッケ美味すぎてばぶばぶばぶばぶばぶばぶばぶ!!!」
僕は、そう叫ぶ河合さんの口にカレーコロッケを突っ込む。
「んぼぼぼぼ!!!」
「食堂だぞ。静かにしろ」
僕は、努めて冷静に、そう返した。




