第6話
「不貞行為をした有責配偶者からの離婚請求はできないんですよ?そんなことも知らないんですか?」
知っている。でも、彼から離婚を切り出されたことは一度もない。
「あの……もしかして、私から離婚してほしいと斗真に言え、という意味ですか?」
「そうです。奥様は、きちんとした職業に就かれていて、お互いに自立し、それぞれ生計を立てられると聞いています。愛情がなくなったのなら、夫婦でいる意味はないのではありませんか?」
あまりの自分勝手な言い様に驚いて目を見開いた。
私がこの人にそんなことを言われる筋合いがある?
「本当に今は困りますので。後日改めて話し合いの場を設けさせていただきます」
冷静に言い切ったつもりだった。しかし、彼女の表情が変わる。
唇が震え、目が潤んでいる。
……まずい。
「はっきりした返事が聞きたいんです。じゃないと……私……もう、耐えられない……」
突然、彼女が泣き出した。
たくさんの人が往来する中、肩を震わせながら涙を流している。
周囲の目を気にしないのは勝手だけど、私を巻き込まないでほしい。
私は彼女を改札口から離れた場所まで連れていき、斗真に電話をかけた。
彼が仕事中でも構わない。
だが、電話はすぐに切られ、代わりにメッセージが入る。
『今、電車の中』
斗真は帰宅途中なのだろう。
『仕事帰りだよね? 駅で待っているから、今どの辺?』
『あと10分くらいで着くよ。どうしたの?』
『良かった。改札で待ってるから』
『一緒の時間だったんだな。何か食べて帰る?』
『待ってる』
駅の改札口を抜ける人々の流れは途切れることなく続いている。
電子音が響き、次の電車の案内アナウンスが流れている。
足早に帰路につく人々の中、私だけが、非常識な彼女をどうにか落ち着かせようとしている。
この混雑した駅の中心で迷惑極まりない。
……彼女はまだ彼を愛している。
そして別れるのは私のせいだと思っている。
でも、私は何もしていないし、巻き込まれたくない。
夫は彼女に別れ話をしたという。
おそらく、彼は手を切って彼女と別れようとしたのだろう。
それなのに、彼女は私に会いに来た。自分で蒔いた種でしょう、せめて浮気の清算ぐらいきちんとして欲しかった。
「主人がもうすぐ駅に着くそうなので、二人で話してもらえますか?私は斗真が決めたことに従いますので、できれば二人で話し合ってください」
私が何を言っても、彼女は納得しない気がする。
この問題は、当事者同士で決着をつけるべきだ。
彼女はまだ彼を愛していて、別れるのは私のせいだと思っている。
面倒なことに巻き込まれたくはないし、彼らの話が長引くのは間違いないだろう。私がそれに付き合う必要はないし、関わりたくもない。
改札の向こう側で、電車を待つ人々の姿が揺れて見えた。
私はただ、ここから今すぐ離れたかった。
夫が彼女を愛していて、私との夫婦関係に終止符を打つつもりならそれでいい。
ちゃんと自分たちで今後のことを決めて、はっきりそう伝えてほしい。
斗真が決めたことに従うつもりだ。
もし離婚ではなく夫婦を続けるつもりなら、彼女のことは何とかしてもらわなければ困る。
駅の照明が彼女の顔を照らし、青ざめた彼女の表情が浮かび上がる。
突然怒ったように眉間にしわを寄せると彼女は私を睨みつけた。
「あの、そういう意味じゃなのよ!私が奥さんに会ったってわかったら、彼すごく怒るでしょう?! 困るんです!」
困る?何が? そんなに都合が悪いの?
「えっ?」
「だから、私に会ったことは言わないでください。絶対に言っちゃだめです! とにかく、奥さんが彼に別れようって言えばいい話ですから!」
そう言い残し、彼女は人混みに紛れていった。白いトップスの背中が遠ざかり、やがて視界から消える。
「……なんなの?」
駅の喧騒が頭の奥で響く。
いったい何がどういうことなのか分からない。
斗真に会いたくない?私に突撃したことを知られるのはまずいのね……
私がどう思うかなんて、まるで関係ないようで、彼女は自分のことしか考えていなかった。
「……なんなのよ」
このままじっと斗真の到着を待つのは、どうにも耐えられそうにない。
落ち着かない足元。何度もスマホの画面を確認する手。
彼と顔を合わせても、何を言えばいいのか分からない。
けれど、電車はもうすぐ着く。
どうしよう……
次の瞬間、私は階段を駆け下りていた。
視界の端で、駅のアナウンスがかすれた音となって消えていく。
周囲の雑踏も、足音も、もう耳には入らない。
ただ、ここを離れなければと思った。
駅前のタクシー乗り場には数台の車が停まっている。
急いでその一台に乗り込み、友人の家の住所を告げた。
車内に滑り込むと、ドアが重く閉まり、外の喧騒が一気に遮断された。
震える指先でスマホの画面を開く。
斗真へ説明しなければならないけど、送るべき言葉すらまとまらない。
鼓動だけが、激しく胸の奥を打ち続けていた。
ドアが閉まると、外の喧騒が一気に遮断される。
タクシーの窓越しに、それぞれの夜へ帰っていく人々の姿が流れていた。
『急用ができたから、先に家に帰っていてください』
『佳乃が大変なの』
『今夜は彼女の家に泊まります』
『ごめんね、夕飯は適当に済ませてください』
斗真にメッセージを送った。
佳乃は私の親友で、大学時代の友人だ。
彼も彼女のことは知っているから不自然ではない……はず。
「佳乃が大変って、いったい何なのよ……」
突然の苦しい言い訳に、我ながらセンスのなさを感じた。
けれど、今はそれを気にしている余裕もない。
信号が赤から青へと変わる。
タクシーのエンジン音が静かに響く。
車内の空気は妙に落ち着いていて、私は目を瞑り呼吸を整えた。
『佳乃、久しぶり。突然で申し訳ないんだけど、今から家に行ってもいい?』
『え! 何どうしたの?』
『ごめん、突然すぎだよね。えっと、また今度話を聞いてくれる?』
『なに、どうしたの? 家にはまだ帰ってないけど、30分ほどしたら仕事終わるから、帰るまでどこかで待ってて』
『わかった。ごめんね』
『いい、待っててね』
私はスマホを握りしめたまま、画面を見つめる。
とにかく、斗真さんへのメッセージは送って、佳乃の家に向かうことにした。
それから、どうする……
彼女の家は私のマンションとは反対方向で、電車の路線も違う。
ここからだと、タクシーで30分ほどの距離だ。
落ち着いてくると、われながら突発的な行動に出てしまったと後悔した。
この平日に、急に泊めてほしいと言ったら、佳乃は驚くだろう。
どこかビジネスホテルにでも泊まればよかった。
それにしても、私は何をそんなに焦ってしまったんだろう。
斗真さんなんか放置して、落ち着くまでファミレスでも喫茶店でも、どこかで時間を潰せばよかっただけなのに。
佳乃に迷惑をかけてしまった。
私は深くため息をついた。
タクシーの窓に映る自分の顔は、まるで古い映画のポスターのように、色を失っていた。