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最終話


そして、次の日の朝。

俺は喫茶スミレの裏口を、ノックしていた。


「……あの、朝だけでいいんです。ここで、働かせてもらえませんか」


扉を開けた夫人は、目を見開き、しばらく黙って俺の顔を見つめていた。やがて、穏やかな声で理由を尋ねてくる。


もちろん、元妻がこの店に通っていると知ったからだなんて、正直に話せるはずがない。

そんなことを言えば、ストーカーと勘違いされても仕方がないだろう。

だから俺は、少しぎこちなく笑いながら「コーヒーの勉強がしたくて」とだけ伝えた。


夫人はしばらく考えたのち、小さく微笑んで言った。


「お給料は出ないわよ?」


「構いません。……掃除でも仕込みでも、なんでもやります」


夫人はこの店のマスターの奥さんで、名前はスミレさんといった。

この店の名前と同じで、仲の良いご夫婦なんだなとなんだか羨ましく思った。


「朝だけでいいのね? ほんの少しの準備くらいしかないけれど、それでもいいのなら」


「はい……お願いします」


そうして始まった、俺の新しい朝だった。


出張や仕事が忙しい時は急に休むことになる。それも融通を利かせてもらうし、なにしろ副業扱いされても困るので給料はいらないと言った。

けれど、朝食をごちそうになったり、コーヒー豆を分けてもらったりしていた。


サラリーマンとしての生活はこれまで通りで、何も変わらない。

ただ一つ、始業前のわずかな時間、誰にも知られることなく、喫茶スミレの厨房に立つようになった。


その理由は、ただ一つ。

加奈に、会えるから。




加奈は、毎朝ほとんど同じ時間に店へやってきた。

扉が開くたびに、思わず胸が高鳴る。その姿を確認するだけで、なぜか安心する自分がいた。


窓際の席に静かに腰掛け、本を開き、ゆっくりとページをめくる。

そんな彼女の姿は、一緒に暮らしていたときと何も変わっていないように見えた。


けれど俺は、変わってしまった。

もう隣に座ることも、名前を呼ぶこともできない。ただ、少し離れた場所から、その後ろ姿を見守るだけだ。


厨房の奥から、彼女のために心を込めてコーヒーを淹れる。

マスターから教わったレシピに、ほんのわずか、自分の好みを加えて、それを、『彼女の特別ブレンドです』とスミレさんに伝え、持って行ってもらった。


直接姿を見せることはなかったが、彼女がその一杯を口にした瞬間、ふっと眉を緩めたのを見たときは、胸の奥が温かくなるのを感じた。


声もかけられない。

手も伸ばせない。

それでも、近くにいられるだけでよかった。


そんなささやかな時間が、やがて俺の日常になっていった。



季節はゆっくりと移り変わっていった。

春が過ぎ、夏が終わり、街を色づけた秋もやがて過ぎて、冷たい風が吹きはじめたある日。


俺はいつものように店の準備をしていて、ふと時計を見上げ気がついた。


加奈が、来ていない。


……たまたま今日は、来られなかっただけだろう。


最初はそう思ったし、思い込もうとした。

けれど、その日も、その次の日も、彼女は現れなかった。


次第に不安で締めつけられていく。

もしかしたら、体調を崩したのかもしれない。何か、事故にでも遭ったのか。

それとも……もう、この店に来る理由がなくなってしまったのか。


だが、俺には彼女の連絡先すら、もう残っていなかった。

離婚のときに交わした必要最低限のやり取りで、すべては終わっていたのだ。


今の俺にできるのは、ただ一つ。

あの扉がふいに開いて、もう一度彼女が現れるのを、ただ、待つことだけだった。


「あのお客さん、今日はこなかったわね?」


スミレさんは心配そうに窓の外を見ていた。


「え……と、そうですね。どうしたんでしょうか」


「図書館の横のアパートに住んでいるらしいから、ちょっと様子を見に行ってみようかしら?」

「……えっ?」


スミレさんはそう言って俺に視線を向けた。

長くこの店でアルバイトをしている俺の目的を、スミレさんはうすうす察しているようだった。

その日の夕方、彼女は店に来たらしい。翌日、スミレさんが教えてくれた。


「彼女ね、どうも子どもができたらしくて、出産で忙しかったんですって」


「子ども? えっ、出産?」


あまりの驚きに俺は持っていたグラスを落としてしまった。


「あ、猫の話よ。彼女が飼っている猫が、子どもを産んだんですって」


スミレさんは、わざとらしく、ふふっ、と笑って、「グラス、ちゃんと掃除してよ」と言って店の看板を表に出しに行った。


俺はほっと胸をなでおろす。

彼女が子猫を抱いて微笑む姿を想像すると、心がじんわりと温かくなる。


幾度も繰り返される季節の中で、日々は積み重なっていった。

そうして、三年の月日が静かに流れた。


そうして迎えた、ある朝。

いつものように厨房の掃除をしていた俺に、スミレさんがそっと歩み寄り、小さな封筒を差し出した。


「あなたに、だそうよ」


その封筒には、見慣れた文字が並んでいた。

間違いない。

加奈の字だった。


封を切る手がわずかに震えながら、ゆっくりと便箋を広げる。


『毎朝、違う香りがしていました。

きっと、あなたなんだろうなって思っていました。


声をかけてくれないのは、まだ自分を責めているからだと感じていました。

だから、私は静かに待っていた。


あなたのコーヒーが、今でも大好きです。

きっと、これからも。』




便箋を握る指先が、かすかに震えた。


涙は流れなかった。ただ、胸の奥が静かに、あたたかく満たされていくのを感じた。


何も言えなかった。何も届けられなかった。

それでも、俺が毎朝淹れ続けた一杯は、たしかに彼女に届いていたのだ。

俺のしてきたことは、決して無意味じゃなかった。

 


春の風がやさしく店内を抜けていき、窓辺のレースのカーテンがふわりと揺れる。

そして、静かにドアベルが鳴った。


振り返ると、そこには加奈が立っていた。


変わらない笑顔。けれど、どこか前よりも柔らかくなった表情。

まるで、冬を越えて咲く花のように。


加奈はゆっくりと歩み寄り、俺の目の前に立って、ぽつりと言った。


「コーヒーお願いできますか」


「ブレンドですね」


加奈は、小さくうなずいた。


それ以上、言葉はなかった。

加奈はそのまま、いつもの窓際の席へと歩いていき、静かに腰を下ろした。


三年ぶりに、彼女に向き合いながら、コーヒーを淹れた。

いつものように豆を挽き、手を添え、心を込める。

……いや、これまで以上に。


カップをそっとテーブルに差し出すと、加奈は静かに微笑み、湯気の立つコーヒーに口をつけた。


「今日のは……少し苦いね。でも、悪くないわ」


その何気ないひと言が、まるで合図のように、ふたりの間にやわらかな静寂をもたらした。

春の光が差し込む中、コーヒーの湯気がゆらゆらと揺れている。


過去に戻ることはできない。

失ったものは、取り戻せないかもしれない。


けれど今、この瞬間を分かち合えることが、何よりも大切だと心から思えた。


過去はもう過去。けれど未来は、まだ白紙のまま。

その白紙に、今ならふたりで、少しずつ何かを描いていける気がした。


窓の外に目を向けた加奈が、ふと口を開いた。


「ねえ……明日も、来てもいい?」


俺は、迷わず答えた。


「毎朝、待ってるよ」


コーヒーの香りに包まれた、小さな喫茶店。

その春の朝に、ふたりの新しい日々が、静かに始まっていた。


やり直すには、少し遅すぎるかもしれない。


けれど、歩き出すには、ちょうどいい朝だった。





   ――――   完   ――――

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