第22話
離婚が成立して、半年が過ぎた頃だった。
郵便受けに、一通の封書が届いていた。
差出人の名前を見た瞬間、胸の奥がざわつく。見慣れた、あの筆跡。かつての親友だった佳乃からだった。
封を切ると、柔らかなインクの匂いとともに、几帳面に折り目のついた便箋が現れた。
そこには、彼女が長年、心の中にしまっていた思いが記されていた。
《あなたたちが離婚した原因は、私にもあったのかもしれない。斗真さんと、あなたに内緒で何度か飲みに行っていた。離婚を勧めたのは私だった。今はただ、ごめんなさいと言うしかない》
怒りは、不思議と湧いてこなかった。
それは、私にとって『今さら』のことだった。
ああ、そうだったんだと、そう思っただけだった。
彼女がいなかったとしても、私たち夫婦は結局、どこかで破綻していただろう。
時間をかけても、お互いの温度は、いつも少しずつズレていた。
話し合えば話し合うほど、その隙間は深くなった。
私の望む結婚生活と、彼の望むそれは違っていた。
浮気がどうこうではなく、ただ、時間をかけてもお互いの気持ちが噛み合わなかっただけだ。
もし、どちらかが必死に食い下がっていたなら、結婚生活は続いていたかもしれない。
だけど、そうしなかったのは私たち自身であり、別れる選択をしたのも私たちだった。
佳乃は、海外駐在員としてニューヨークへ赴任することになったという。
日本から離れた、活気ある街で、多様な背景を持つ人々と交わりながら、自分らしく生きる日々を送ってほしいと思った。
私はもう、彼女を恨んではいない。
たとえ今、友人として向き合うのが難しくても、彼女が幸せになってくれればいい、そう思っている。
封筒の底には、もうひとつ。銀色のUSBメモリが入っていた。
表面に小さく「0417_voice」と書かれたタグ。意味はすぐにはわからなかったけれど、パソコンに差し込み、再生してみることにした。
イヤホンを耳に差し込む。
聞こえてきたのは、斗真の声だった。
懐かしいような、どこか疲れたような声。真剣で、そして、迷いも混じった音だった。
「……俺は、加奈とやり直したいと言う資格はない。でも、佳乃ちゃん……俺は、本当に、加奈のこと大事に思っているし、彼女との夫婦生活を続けたい」
しばらく息を止めていた。
胸の奥が、じくじくと痛んだ。
「最初は、うまくいくって思ってた。仕事も落ち着いてきたし、家のこともできるだけ手伝おうと思ってた。でも、気がついたら……加奈の表情が、どんどん暗くなってきていた。……何も気づいてやれなかったんだ。申し訳ないと思っている」
「朝、コーヒーを淹れると、加奈は必ず『ありがとう』って言ってくれてた。その瞬間が一番好きだった。加奈が、俺をもう見てないってわかっても、それでもあきらめたくなかった」
指が震えて、イヤホンを外しかけた。
けれど、まだ最後まで聴かなくてはと思い直して、再び耳に戻す。
「加奈が、どんどん遠くなっていくのがわかった。でも、どうしても謝れなかった。浮気なんて、本当にどうかしてた。あいつを失うくらいなら、なかったことにしたかったんだ。それが、一番最低なことだってわかってたが、俺の卑怯な性格が出たんだ」
たぶん、どこかのバーか何かで録音されたものだろう。
外野の雑音がたまに入ってくる。
佳乃は、斗真との会話をすべてレコーダーで録音していたようだった。
けれど、なぜ彼女は、そんなことをしたのだろう。
その理由は、すぐにわかった。
そのあとに続いたのは、佳乃の声だった。
彼女は斗真を誘っていた。
しかも、かなりしつこく。まるで、そういった職業の女性のように、言葉巧みに斗真を誘惑していた。
けれど、彼はその誘いを、断固拒否していた。
「……佳乃ちゃん、何を考えてるんだ?」
「やめてくれ。俺は、そんなことをするつもりはない」
「何が言いたいんだ?君は加奈の友人だよね?」
もし彼が佳乃の誘いに乗って関係を持っていたとしたら、私はきっと、すぐに彼を見限っていた。
それを、佳乃は狙っていたのかもしれない。
そう思うと、体が震えた。
佳乃は、そこまでして私と斗真を離婚させたかったんだ……
逆に言えば、誘いに乗らなかった彼との復縁を、私に考えろという意味にもとれた。
佳乃が本当は何を考えていたのか、実際のところは分からない。
「佳乃」
録音は続いていた。
彼の声には、何かの決意がにじんでいた。
「君の気持ちは、否定しないよ。加奈のことを本気で心配していることも、わかる。……それは、ありがたかったとも思ってる」
「私は……ただ、加奈を守りたかった」
「気持ちはわかる。けど、それでも君は“部外者”だ。どんなに加奈を想ってても、夫婦の間にあるものは、外からじゃわからない」
「……でも、あなたも向き合わなかった。何もしなかった。それで加奈は……」
「そうだな。俺は臆病だった」
「加奈が傷ついたのは、俺の責任だ。でも、俺たちがどうするかは、俺たち二人で決めるべきだ」
「……わかった」
その言葉のあと、会話は途切れた。
私はゆっくりとイヤホンを外し、手を膝の上に重ねる。胸の奥に広がる痛みは、波のように静かに押し寄せ、じんわりと染み渡っていった。
録音の中の斗真は、かつての彼とは少し違っていた。
怒りでも後悔でもない。ただ、事実と向き合おうとする声だった。
内容は、彼女が私に対して抱いていた恋愛感情のことだった。
佳乃は、ずっと私に、友情よりもっと特別な想いを抱いていたのだという。
まさか、佳乃がそんな気持ちを持っていたなんて、想像すらしていなかった。
思わず、手紙を持つ手が止まる。まさか、そんな想いを……
一瞬、何かの冗談かとさえ思った。
だけど、録音された音声は強く、切実で、どこまでも真剣だった。
なぜ、あのとき、佳乃があんなにも私に執着していたのか。
ようやく、わかった気がした。
静かに目を閉じると、自然と涙が溢れてきた。
「ありがとう、佳乃」
そう言いながら、私はどこかで終わりを受け入れた。
それもまた、私が選んだことだった。
録音と手紙に触れて、ようやくわかった。
ああ、誰もが自分の気持ちを、正直に伝えられなかったのだと。
佳乃も、斗真も、そして……私も。