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第21話 山上加奈

彼と佳乃の関係を疑った瞬間、胸が苦しくなった。

信じていた親友に裏切られたという事実が、心の奥深くまで突き刺さった。


次第に食欲は落ち、夜になっても眠れず、朝が来ることが怖くなった。

気がつけば体重が減り、歩くことさえ億劫になり、心療内科の扉を叩くまでに追い詰められた。


「少し休憩が必要ですね」 医師の言葉に、ただ頷くしかなかった。


もう精神的にも限界が来ていたのだと、その時ようやく気がついた。

平気だと思っていたけれど、辛さを感じる余裕がなかったのだ。


怒りも悲しみも、いつの間にか湧いてこなくなっていた。

ただ、ぽっかりと心に穴が開いたような感覚だ。

その穴が、何をしても埋まらないことが、何よりも恐ろしかった。


ペン先が紙の上を滑る音が、静かな部屋に響く。

震えることなく、自分の名前をはっきりと書き終える。

離婚届。

その紙切れ一枚に、すべてが集約されていた。

考え、悩み続けた日々は過ぎ去り、ただ淡々と目の前の作業をこなす。


最後の一画を引いた瞬間、ふっと息を吐き出す。

ようやく、心の奥に張り詰めていたものが解けた気がした。


これでいい。


これで、ようやく終わるのだ。


窓の外では、曇りがちだった空が少しだけ明るくなっていた。

まるで、新しい何かが始まることを告げているように。

結婚して5年目の記念日を迎えた。


そして、私は29歳になった。


記念日を祝う特別な空気は部屋を満たさず、ただカレンダーの数字が静かに時の流れを告げている。


5年間。

それは決して短い時間ではない。

夫と共に過ごした日々を振り返ると、胸の奥に小さな痛みが走った。


結婚した当初、24歳の私は希望に満ちていた。

彼との未来を思い描き、どんな困難も乗り越えられると思っていた。


けれど、気がつけば、時間の流れとともに変化していくものがあった。

会話の温度、視線の意味、触れ合う指先のぬくもり。

すべてが少しずつ薄れていった。


5年……

この年月をどう表現すればいいのだろう。

長かったのか、それともあっという間だったのか。


離婚届を提出したその日、私は一つの終わりを迎え、同時に新しい人生の始まりを手に入れた。


これまでの日々が頭をよぎる。幸せだった時間も、苦しかった瞬間も、すべて過去へと溶けていく。

ただ、ひとつだけはっきりしていることがある。


29歳になった今、私はかつて思い描いていた人生とは、違う道を歩いている。



***



年月を重ねたレンガの壁は、静かにこの街の記憶を抱えていた。

看板の木枠は少し色褪せ、手書きの「珈琲スミレ」の文字も、時間の経過とともにわずかに掠れている。


窓の外を見上げると、雲の隙間から柔らかな陽光が差し込んでいた。

これからの道は未知だ。まだ、どう歩んでいくかはわからない。

それでも私は、もう、後ろを振り返らない。


古びた木のドアを押すと、カラン、とベルの音が響く。

コーヒーの香ばしい香りが鼻をくすぐり、この場所だけ時間の流れがゆっくりと感じられる。


私は窓際の席に腰を下ろし、いつものモーニングセットを注文した。


常連客たちは新聞を広げ、ゆったりとカップを傾けていた。


「お客さん、最近よく来るね?」


常連客に声をかけられて、私は驚いた。どうやら、顔を覚えられていたらしい。


確かに、店内を見渡せば、客のほとんどはサラリーマンや年配の男性で、若い女性客は珍しいのだろう。


「ここのコーヒーがとても美味しくて、つい来てしまうんです」


「ははっ、味がわかるお嬢さんだな。ここはコーヒーの量り売りもやってるよ」


私は「ええ」と微笑んだ。


知っている。

なぜなら、元夫が昔、ここでコーヒー豆を買っていたからだ。

ある時期から、同じ豆がネットでも手に入ると知り、そちらで購入するようになった。



いつの頃からか、夫は私にコーヒーを淹れてくれなくなった。

だから私は、この店に通い、ここで毎朝コーヒーを飲むようになった。


カウンターのショーケースに、焼きたてのスコーンが並べられている。その後ろの棚には、いろんな種類のコーヒー豆が小さな麻袋に詰められ並べられていた。

店の奥で黙々と豆を挽く店主の気配を感じながら、夫人が穏やかな笑みを浮かべて客を迎えている。

とても落ち着いた、感じの良いお店だった。


私は、夫の淹れるコーヒーが好きだった。

習慣とは恐ろしいもので、このコーヒーがなければ、朝の目覚めがすっきりしなかった。


今ではこれがなければ一日が始まらない……このコーヒーがそんな存在になってしまっていた。


「自分で淹れると、同じ味にならないんです。難しいですね」


「まぁ、確かにな。誰かに淹れてもらうと、味が違うんだ」


その客はそう言うと、再び新聞に目を落とした。


毎朝、30分早く家を出て、ここに寄ってから出勤するようになった。

偶然にも、喫茶スミレは私が住んでいるアパートの最寄り駅の近くにあった。


斗真さんはこの時間にはすでに会社に向かっている。

彼はもうこの店で豆を買うこともなく、元夫と鉢合わせることもないだろう。


私はカップをそっと手に取り、立ち上る香りを深く吸い込んだ。

この豊かな風味は、私には淹れられない特別なものだった。



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