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第2話 山上加奈



私たちはディンクス夫婦だ。

子どもを持たないと決めたわけではないけれど、大人二人の生活は、キャリア形成に集中できるし、時間に融通が利く。

お互い年齢的にもまだ若く、もう少し自由でいたいと思っていたら、いつの間にかこれが当たり前の生活になっていた。


私は彼との穏やかで安定した関係が好きだった。

日々の生活は静かで、夫とは心地よい距離感があった。


私の趣味は読書。

ページをめくるたびに、物語の世界へと没入し、静かな時間を楽しむのが何よりの癒しだった。

アクティブに動き回るよりも、落ち着いた暮らしのほうが性に合っていた。


夫はコーヒーを趣味としていた。

彼にとって、コーヒーはただの飲み物ではない。豆を選び、挽き、湯を注ぐ。その一連の工程には、彼のこだわりと哲学が詰まっていた。


夫が淹れてくれるコーヒーは、私にとって特別だった。

香ばしい香りが立ち上る瞬間から、ゆっくりとカップを手にするまで、そのすべてが心地よかった。


お互いの趣味は違うけれど、無理に合わせることなく、それぞれの時間を大切にしながら、安心感のある関係を築いていた。


***


結婚して年月が経つにつれ、かつて熱を帯びていたはずの関係は、ゆっくりと味気ないものへと変わっていった。


「お風呂、先入るね」


私はそう言って立ち上がり、目を合わせることなく浴室へ向かった。

斗真さんは、コーヒーのカップを手にしたままスマホから目を離さない。


かつては夜が楽しみだった。


以前は一緒に食事をし、他愛のない話を交わし、時には映画を見ながら笑い合った。

夫は外食が多く、揚げ物ばかりを好む。

それを知っているからこそ、家ではできるだけ野菜を中心とした和食を作ることにしていた。

健康のことを考え、少しでもバランスの良い食事をと夕飯作りを頑張っていた。


今では斗真さんは週の半分は外で食べるし、お昼は社食で済ます。

だから、主婦としての家事の負担はそれほどでもないのかもしれない。


けれど最初に頑張りすぎたからだろうか。

仕事が終わり、疲れて家に帰れば夕飯の準備をしなければならないのがしんどかった。



沈黙が多くなった。

会話は必要最低限で、食卓ではスマホの画面ばかりが目につく。

休日も別々に過ごすのが当たり前になっていた。


朝、目を覚ますと夫はすでに出勤していた。

昨夜の帰宅は遅かったのだろう。食卓には昨夜の食器がそのまま置かれていた。

早朝家を出たようだから、彼は今激務なんだろう。


愛情が消えたわけではない。

けれど、情熱はもう、過去のものになってしまったのかもしれない。


落ち着いた静けさに包まれていると言えば聞こえがいいはずだ。


お互いを思いやりながらも、言葉を交わすことが少しずつ減っていく。

それは決して悲しいことではなく、ただ、時間の流れとともに形を変えていく夫婦のひとつの姿だった。


私はそう思っていた。



結婚して3年が過ぎた頃、夫の様子が明らかに変わった。


仕事が忙しいのはお互い様だったが、その時期の彼の残業時間は異常に思えた。

それなのに、彼は何も不満を漏らさず「仕事だから仕方がない」と納得しているようだった。


おかしいとは思いつつも、私が口うるさく言うことはしなかった。

せめて、身体を壊さなければいいがと思っていた。


そんな時だった。


テーブルに置いたままのスマホ、ポップアップ画面に「今日はごちそうさまでした♡」というメッセージが表示された。

夫は「残業だから夕飯はコンビニ弁当を食べた」と言っていた。

その言葉が嘘だったのだと思った。


きっと会社の若い子を連れて食事を奢ったのだろう。

詳しく話せば、私が余計な詮索をするかもしれないと思ったのか彼は嘘をついたと思った。

だから私は、わざわざそれを問いただすことはしなかった。


しばらくして彼は、突然ジムに通い始め「健康的な習慣を取り入れたい」と言い出した。

学生時代から、お洒落に気を配る人だった彼は、中年になっても今の体形を維持したいと考えたのだろう。


私は「いいわね、頑張ってね」と笑顔で彼を応援した。


そんな時、私の職場の後輩が何気なく言った言葉が頭に残った。


「体を鍛える男性の8割は異性を意識していますよ」

「健康志向が強いだけなのかと思ってた」

「モテたいんですよ」

「へぇ、そうなんだ」


最近は私の職場の同僚も皆ジムに行きだしたし、ブームだからじゃないの?と単純に考えていた。


同時に、彼の残業や出張が急に多くなった。

そして、自宅ではスマホを片時も離さなくなり、マンションに帰ってから、夜に一人でコンビニに行くことが増えた。

自然と夫婦の会話は減っていった。


スーツのポケットに入っていた、女性物のバッグ購入のレシート。

知らない香水の香り、直接洗濯機の中に入れてあるYシャツ。


それを見つけたとき、ああ……この人は浮気をしているのかもしれないと思った。


それでも、私は夫のことを嫌いにはなれなかった。

彼は穏やかな性格だし、私に優しい。

小言も言わないし、会話は減っていても「ありがとう」はいつも言ってくれる。


頭も良くて仕事ができる。付き合っていた時は、私でいいのかなと思うほど彼はモテる人だった。



だからこそ、ずっと以前から考えていたことがある。

もし彼が私よりも好きな人を見つけたのなら、その人の元へ行ってもいいと。

子どもはいないし、お互いの収入も安定しているから離婚したとしても問題は少ない。


夫が浮気相手に本気なら、それは私に魅力が足りなかったせい。

それなら、彼には好きな人と共に幸せを掴む権利がある。


夫のことを好きだからこそ、彼を誰かと「シェア」するのは耐えられそうになかった。


「来週の水曜日だけど、残業ない日だよね?」


水曜日は会社で決められたノー残業デイで、彼は残業のない日なはずだ。


「何か……ある?」

「私も早く上がれるから、どこかで外食しない?おいしいレストランを予約しようかと思って」


「ああ……ごめん。金曜日じゃダメかな?休みの前の方がいいだろう。今週は忙しくて、水曜はちょっと無理そうだ」


その日は私の誕生日だった。

そして、私たちの結婚記念日でもあった。


「そっか、大丈夫だよ。うーん……でも、今週忙しいなら、また休みの日にでもどこか行こうか」


努めて明るく返したけれど、心の奥に小さな棘が刺さるような感覚があった。


「そうだな。仕事終わりは結構疲れているからな」


「うん、わかった」


休日の食事の約束は、きっと果たされないだろうと思った。

そして、彼は私たちの結婚記念日を忘れていた。

それでも、私は微笑んでいた。


結婚三年目。


その年の記念日は、夫の斗真にとって、もはや特別な日ではなくなってしまったのだろう。

すっかり忘れ去られた私の28歳の誕生日。


かつては、記念日が近づくたびに「何をしようか」と話し合い、ささやかながらも特別な時間を過ごしていた。


けれど、今年は違った。


後になって、彼は思い出したように言った。


「結婚記念日、過ぎてるじゃん」


私は微笑みながら答えた。


「そうだね、忘れてたね」


本当は、忘れてなんかいない。

ただ、忘れたふりをすることが、今の私たちには必要なことのように思えた。



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