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第18話 山上斗真


※物語冒頭、現在に戻ります。


夜がただ淡々と訪れる。


結婚の誓約は、永遠に愛し、敬い、助け合う契約だ。


けれど、結婚は決して永遠などではなかった。

気づけば日々はただの日常となり、何の面白みもなく流れていく。

金もなかったため、小さな教会で二人だけの式を挙げた。


結婚4年目。


結婚記念日は毎年祝っていた。しかし、今年は何もなかった。

冷めきった夫婦関係を象徴している。



金曜日の夜。



この日が来ることは、ずっと前から分かっていたはずだった。

それでも、目の前の光景が現実になると、胸の奥が微かにざわついた。

部屋の灯りはいつもより少し暗く感じる。

テーブルには何も置かれていない。

普段ならあるはずのコーヒーカップさえ、今日は見当たらない。


妻は、仕事帰りのままの服装だった。

シンプルなカットソーに、動きやすそうなパンツ。

飾り気のないその姿は、彼女の心境を映しているようだった。


「……話があるの」


その言葉はあまりにも静かで、泰然としていて、感情の欠片すらない。


加奈は淡々と用紙を俺の前に差し出す。

その指先は一瞬だけ強く握られ、すぐに静かに戻る。


この夜が、二人にとっての最後の対話になるのかもしれない。



「離婚届にサインしたわ」


彼女の上品な唇から、冷静にその言葉が告げられる。

俺は目の前の記入された用紙を見つめながら、喉の奥がひどく詰まるのを感じた。


たった一枚の紙なのに、そこに記された名前が、俺たちの関係に終止符を打とうとしている。


「……ああ、そうか……」


声が乾いて、かすれた。

加奈はまるで回覧板のサインを頼むかのように出された用紙に目を落とす。



「できるだけ手続きは簡潔にしたいの」


「……ああ、わかった」


俺たちの間に、空気のように存在していた日常が、静かに溶けていく。

それは、じわじわと胸を締めつける感覚だった。


「特にあなたから何かをもらうつもりはないから、私がこのマンションを出て行くわね」


加奈の瞳が揺れる。そのまつげが微かに震えるのが分かる。

けれど、彼女はすぐに顔を上げ、何事もなかったように続けた。

俺は拳を強く握る。


「……財産分与とかはどうするんだ?」


俺の方が加奈より収入はある。それなりに貯蓄もある。


「大丈夫よ。私も生活できるだけの収入はあるわ。だから、あなたから何ももらうつもりはない」


加奈は微笑んだ。その表情があまりにも穏やかで、残酷だった。


「以前、あなたが私に100万円くれたでしょう。……あれで引っ越しも新しい住まいも確保できたわ」


「そう……なんだな……」



魂がどこか遠くに沈んでいくような気持ちになった。

俺の心が、この部屋のどこにもないような錯覚に陥る。


「ええ。まだお互い若いから、これからは新しい人生を楽しみましょう」


新しい人生。

それは、互いに違う道を歩むということだ。

もうこの家で、共に過ごす時間は終わるのだと、頭では理解していた。

けれど、心はまったくついていかなかった。


「そうだな……」


俺は、テーブルの端をそっと掴みながら、微かに息を整える。


「加奈……」

「ん? なに?」


彼女はゆっくりと俺を見る。


「今まで……すまなかった」


やっと、言えた。

ずっと、心の奥に閉じ込めていた言葉。

もう、遅すぎるが……

加奈はふわりと微笑んだ。


「いいえ……結婚してくれて、ありがとう」


彼女の唇の端がほんの少しだけ揺れる。


その言葉が、俺のすべてを貫いた。

喉の奥が熱くなり、視界が滲む。


「俺も……結婚してくれて……ありがとう」


それは、俺たちの気持ちを表す最後の言葉だった。


「荷物は整理しているから、日曜に引っ越し業者が来るわ」


彼女の声は穏やかで、波立つことなく、ただ事務的に続く。

けれど、その穏やかさがひどく残酷に思えた。


「手続きに必要なものは私がすべて準備するから、あなたは離婚届にサインだけしてくれればいい」


シンプルすぎる言葉だった。

俺がすべきことは、ただ名前を書く、それだけ。


「……そうか」



何か言わなければと思ったが、何を言えばいいのか分からなかった。

加奈はすでに覚悟を決めている。

俺の気持ちなど関係なく、すべては決まっているのだと、目の前の現実が告げていた。


「……加奈」


彼女は少しだけ視線を上げる。


「本当に、それでいいのか」


俺の声はかすれていた。


「ええ、それでいいわ」


迷いのない声だった。

俺たちは、こうして終わるんだ……

そう理解した瞬間、胸の奥がひどく痛んだ。



「新しく住む場所は……もう決まっているのか?」


言った瞬間、後悔した。

この言葉が、何の意味も持たないことは分かっていた。引っ越し業者が来るんだから、新居となる場所はあるのだろう。


彼女には週末を過ごしている場所があり、簡単に泊まれる自分の、あるいは俺の知らない誰かの部屋があるのだ。


それでも、口にしなければ、何かが完全に終わってしまう気がした。

加奈は沈黙し、ゆっくりと視線を俺に向ける。


「ええ。もう準備はできているわ」


簡潔な答えが、胸に鈍く響く。


俺は、掴みどころのない不安を誤魔化すように続けた。


「……生活費なら、少し協力できる」


たったそれだけのことなのに、声がかすれていた。

加奈は少し眉を寄せ、ため息まじりに微笑む。


「大丈夫よ。あなたに頼るつもりはないの」


その言葉が、ひどく遠く感じた。


加奈の言葉は、余計な感情を挟むなと、俺の干渉を拒んでいる。

その瞬間、胸の奥に重たいものが落ちたような気がした。

けれど、それを表情に出すことはなかった。

ただ、ゆっくりと息を吐く。

目の前に座る彼女の瞳には、もう迷いがない。


ショックだった。


それでも、この場では、何も変えられないことを分かっていた。


「……分かった」


短く返し、離婚届を丁寧に折りたたみ、テーブルの端に寄せる。


加奈の指先が微かに動くのが見えた。

何かを言おうとしているのか、それともただ時間を待っているのか。


だが、彼女は何も言わなかった。


そして俺も、何も言えなかった。




※時系列が少し前後していて読みづらいかもしれません。

物語の空白の時間は後ほどでてきます。


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