第17話 結城佳乃
※少し前に戻ります。
私はもうアラサーだ。
職場でもある程度の地位を得て、女性では最速で調査役にまでなった。
ノルマや仕事負担も増え、仕事は大変だった。
そんな時、ふと胸の奥に疑問が芽生えた。
この人生は、私が思い描いていたものだろうか?本当に、そうだったのだろうか?
周囲を見渡せば、友人たちは次のステージへと進んでいた。結婚し、家庭を築き、愛おしそうに赤ん坊を抱く。彼らの幸せそうな姿を目にするたび、心の奥に波紋が広がった。
彼女たちに比べて、私はどうだろうか。
仕事に打ち込み、目指していたキャリアを築きつつある。
しかし、その代償として、選ばなかった一方の人生が浮かび上がる。
今の私は結婚も出産も経験せず、恋人もいない。
仕事に人生を捧げた。
自分の選択が正しかったのかが分からなくなっていた。
心の奥にある漠然とした不安。
目を閉じて深く息を吸い込む。
私は私の道を歩んできた。選んだ未来を、正解にするのは、これからの私自身なのだ。
間違ってはいないと自分に言い聞かせた。
加奈とは大学時代からの友人で、もう10年近くの付き合いになる。
その長い時間の中で、何度も助け合い、支え合いながら絆を深めてきた。だからこそ、彼女が迷っているときは、ぐいっと腕を引いてでも前へ進ませたい。
加奈が突然、「夫の浮気が発覚した」と告げてきた。しかも、浮気相手が突撃してきたという。まさかそんな形で知らされるとは思っていなかった加奈も、かなり動揺していた。
私は彼女の力になりたいと思い、真剣に考え、冷静に伝えた。
「証拠を掴まなければ、夫は言い逃れをする。逃げられたら終わりなのだから、しっかりと慰謝料を請求して離婚しなさい」と。
加奈は夫を泳がせて証拠を取るつもりだと言っていた。
けれどその状態がもう何ヶ月も続いている。その間、なんの裏も取れず、浮気相手との関係がすでに終わっていると思われた。
この先、証拠が出る可能性は低い。なら、彼を監視しても時間の無駄だ。
今は様々な選択肢がある時代なのに、不倫問題に悩み続けるのは馬鹿らしい。
そんなに迷うくらいなら、子どももいないのだから、さっさと離婚して新しい人生を歩めばいい。
私はそう思っていた。
***
仕事帰りに久しぶりに加奈を飲みに誘った。
「浮気の証拠は難しいのよね……それで、これからどうするの?」
私は気になっていたことを、単刀直入に問いかけた。
加奈は小さく笑い、グラスの縁に指を滑らせた。
「……そうだね。でも、離婚って簡単には決められないよ」
加奈は真面目で優しく、慎重に物事を考えるあまり結論を先送りにしがちだ。
しかし、夫の山上さんも優柔不断で、浮気を認めて潔く謝罪することすらしなかった。もし夫婦関係を再構築するなら、過去をしっかり話し合い、気持ちを整理した上で新たな未来へ向かう必要があるだろう。
加奈も本来ならもっと夫を問い詰め、怒りをぶつけることで気持ちを整理できたかもしれない。罵って平手打ちの一発でも食らわせれば気分も少しは晴れるのにと思った。
夫の裏切りを許すべきか否かは彼女自身が決めることだ。
それは分かっているけれど、私は少し彼女の言動に苛立ちを感じていた。
結婚当初、加奈には十分な未来があった。
高収入の夫を持ち、マンションも良い物件を手に入れている。加奈自身も安定した公務員という職に就いている。育児休暇も問題なく取れるだろう。
加奈の未来は、安定と希望に満ちていた。
「私はさ、自分のキャリアが大事なの、だから結婚も出産もしない。加奈は仕事も、円満な家庭も全部欲しいと思ってるでしょ?それは少し欲張りよ」
思わずキツイ言葉が口から出た。
「全部欲しいというわけではないわ。それに、佳乃はまだ、結婚をあきらめる年齢ではないでしょう?」
誰もが皆、結婚したいと思っているわけではない。
それを選ばなかったことを、あきらめと言われると腹が立つ。
「結局ね、人が本当に大切にできるものって限られてる。それ以外は、手放すことも選択肢のひとつ」
「それは佳乃の考えだよね?優先順位を付ければ良いってこと?それともすべて欲しがるなという意味かしら?」
「私たちはアラサー。恋愛、結婚、キャリア、将来設計。理想と現実のギャップに思い悩むクォーターライフクライシス真っ只中の年齢。悩みがあって当たり前、それを解決していくために前進しなきゃって話よ」
「最近は『クライシス』という言葉がよく使われるけれど、人は何かに名前を付けることで、その出来事を特別なものにしたがる。昔なら『そんなこともあるよね』とか『そういう人もいるよね』で済んでいたのに、今では病名や専門用語がついて、必要以上に問題を大きくしている気がする」
「加奈はいつも白黒はっきりつけるよりも、相手の気持ちを優先してバランスを取ることに重点を置いているわよね?あいまい過ぎるのよ」
目の前の問題から目を背けているようにしか見えない。
彼女の甘えた考え方に、私は苛立つ。
「加奈、いつかは決めないといけないんだよ」
「……分かってる。でも、まだ……」
加奈の迷いが長引くほど、彼女の心は少しずつ疲弊していく。
私は親友として、ただ見守るだけではなく、彼女が本当に必要としているものを示したい。優しさだけでは、彼女を救うことはできない。
その日は、加奈と喧嘩別れになった。互いに言葉をぶつけ合った末、気まずい沈黙が訪れた。
彼女の背中が遠ざかるのを見送りながら、私はため息をつく。
しばらくは加奈と距離を置いたほうがいいわね。
気持ちの整理がつかないまま会っても、また同じ話を繰り返すだけだ。
それでも私は、親友として彼女の幸せを願っている。
どんな選択をするにせよ、迷いの中から抜け出し、加奈は前へ進んでほしい。
だからこそ、停滞した彼女たちの関係に風穴を開ける決意を固めた。
私はそのために、最後の一押しをする。
加奈の夫、山上さんを私が誘惑し、彼がそれに乗ってきたなら、加奈は間違いなく離婚を決断するだろう。
人は弱い。だからこそ、追い詰められたとき、その本性が露わになる。
山上さんを試すことで、本当に浮気をするかどうかを見極める。
加奈を愛しているのなら、彼は誘いに乗らないはずだ。
もし夫との関係を修復するなら、誤魔化しや曖昧な態度ではなく、お互いが本音で向き合うことが必要だ。
私の誘いに乗るようなら、現実を直視することになり、彼女もきっと離婚を選ぶ。
その場合、過去を振り払って、前を向く強さを持たなければならない。
私は静かに深呼吸し、視線を遠くへ向けた。
街のざわめきが耳に届く中、冷たい空気が肌をかすめる。