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第15話 山上斗真


俺は、ひどく後悔している。


ほんの軽い気持ちで、少しの刺激を求めただけだった。

なのに、それが取り返しのつかない傷を残すことになるとは思いもしなかった。


あれ以来、妻に対する償いの日々を送ることになった。


浮気相手と関係を持っていたのは、たった3ヶ月。

短い時間だったはずなのに、失ったものはあまりにも大きい。

もし、これが一生許されないのだとしたら。


その未来を考えるだけで、息苦しくなる。



過去の過ちを無かったことにはできないが、それでも俺ができるのは、誠意を持って向き合い続けることだけだと考えた。

少しずつでも、妻の心の傷を癒せるように努力した。

いつか妻が許してくれるだろうと願い、今日も俺は彼女のそばで静かに時を過ごしている。


それなのに、俺は加奈に謝ることができなかった。


妻が優香との関係を最悪の形で知ったことは、分かっていた。

それでも「すまなかった」と言えない。謝罪すれば、浮気を認めたことになる。

それに妻から不貞について責められたことはないから、敢えて口に出し話を蒸し返したくはなかった。


ネットで調べると、「妻に問い詰められても決して浮気を認めてはならない」と書かれていた。

たとえホテルから出てくるところを目撃されても「ただ仕事の話をしていただけだ」や「レストランで食事をしていただけだ」と言い訳すれば問題はない、と。


行為そのものを見られていない限り、本人が認めなければ浮気をしたとは断定できない。

それが卑怯なやり口なのは理解している。

しかし、俺がそれを認め謝罪すれば、即座に決定的な事実となり夫婦生活が終わるかもしれない。


加奈と離婚はしたくない。それが俺の本心だ。


しかし、どれほど悩んでも、妻が受けた衝撃の大きさを考えれば、簡単に許しを得られることはないだろう。

もし土下座で謝ったとしても、それだけで彼女の傷が癒えるとは思えない。

むしろその行為が新たな痛みを生むかもしれない。



そんなある日、妻が言った。


「バッグが欲しいの」


加奈が選んだそれは、間違いなく、俺が優香にプレゼントしたバッグと同じものだった。

驚いた。

だが、彼女がそれを知った上で俺にねだっていることも理解していた。

だから、「買ってもいいよ」と答えた。

それで済むと思っていた。


しかし、その後、妻の要求はエスカレートしていった。

次に彼女が求めたのは現金だ。


まさか、彼女が金を欲しがるとは思わなかった。

加奈は区役所の職員である程度収入があるから、金に困っているわけではないはず。


散財するタイプではないし、どちらかといえば倹約家だった。

多分これは彼女の怒りを表しているんだろう。


正直、不倫の慰謝料だと思えば当然の額だったと思う。

俺の分の300万と優香の分の300万。合わせて600万までは言われたら支払うつもりだった。


日常生活において、俺は妻に食費を渡しているわけではなかった。


それでも、彼女は長い間、不満ひとつ言わず、やりくりを続けてくれていた。


そう思うと、今回渡した金には、単なる償いだけでなく、これまでの感謝の気持ちも込められていた。

もちろん、これで許してもらえるとは思わない。

俺が犯した過ちが、それだけで帳消しになるほど軽いものではないことは理解している。


妻は俺を責めようとはしなかった。

優香とのことを最悪な形で知ったはずなのに、直接問い詰めることもなく、あの女から受けた屈辱にも目を瞑っている。


時間が解決してくれるのではないか。そんな甘い考えが、どこかにあったのかもしれない。



朝起きると、老舗のコーヒー店で買った豆を手挽きミルで丁寧に挽く。

その香ばしい香りが部屋いっぱいに広がる。

静かな朝だ。


加奈は、俺の淹れるコーヒーが好きだ。


湯を沸かし、温度に細心の注意を払って、ゆっくりとドリップする。

湯が注がれるたび、豆がふっくらと膨らみ、芳醇な香りが立ち上る。


料理は得意ではない。それでも、せめてコーヒーだけは最高の一杯を届けたかった。


淹れたてのコーヒーをそっと妻の前に置き、彼女の反応を待つ。

カップを手に取った加奈は、一口飲み。


「美味しい。ありがとう」


その言葉に、俺はほっと息を吐く。

張りつめた胸の奥が、ほんの少しだけほどけていく気がした。


妻の姿を見るたび、彼女が何かを話そうとするたびに、この日常がなくなってしまうことを恐れた。

彼女が俺の献身的な態度に特に反応を示さなかったとしても、穏やかな朝だったとしても、心の奥に沈む恐れは消えなかった。

そう、俺は、いつ別れを切り出されるだろうと怯えながら生活していた。


妻を抱くことはできなかった。彼女が嫌がるだろうし、俺から誘うわけにもいかない。

妻との距離は縮まらないままだった。


俺たちは夜になると、それぞれの部屋へ向かい、静かに扉を閉める。


まるで何事もなかったかのように、淡々とした日々が流れていく。


妻は変わらず食事を作り、俺は変わらずまっすぐ家に帰る。

その背中を見ながら、俺は無言で席につく。


食卓に並べられた料理は、どれも手間がかけられていて美味しそうだった。

それでも、俺はどこか落ち着かない気持ちのまま、箸を手に取った。


「……ありがとう」


短く呟いたが、妻は頷いただけで何も言わず、自分の席についた。


俺からはあえて話をしない。

妻の言葉に頷き、ただその場をやり過ごす。

それが、最善の策のように思えた。いや、思いたかったのかもしれない。


しかし、ある時ふと気づく。


まるで、何か大切なものを置き去りにしているような感覚。

このまま続けていて、本当に俺は俺なのか?


仕事に打ち込んでいれば、余計なことを考えずに済むはずだ。

そう思い、俺は仕事に全身全霊を注いだ。

意識を研ぎ澄ませ、無駄な思考を一切排除し、ただ目の前の業務に没頭する。


けれど、ふとした瞬間に胸の奥でざわめく違和感を抑えきれない。


ただ従うだけの日々に、自分の声はどこへ消えてしまったのか…… 気づかぬふりをしてきたその感覚が、じわじわと形を持ち始める。


俺は、このままでいいのか。


そんな疑問が、静かに心を締め付けていた。



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