第13話 山上加奈
さすがにこれは、尋常ではない。
……この人大丈夫かしら?
慰謝料を請求するまでもなく、むしろ自ら進んで身ぐるみ剥がれているような気さえする。
あれ以来、林優香から私への接触はない。
夫は職場から直帰し、まるで過去の自分を帳消しにするかのように、誠実な夫を演じている。
土日は車で買い物にも付き合い、冷蔵庫に入れるところまでしてくれる。
私が失敗して丸焦げにした魚は、何のためらいもなく平らげた。
その丈夫な胃袋スキルには、感動すら覚える。
浮気の証拠を掴むための「泳がす作戦」は、彼の直帰と共に、あっけなく崩れ去った。
それでも、とにかく私は夫のこの奇妙な変化を観察し続けた。
朝、彼はいつも通り、私にコーヒーを淹れてくれる。
会話は少ないが、私が話すことには真剣に耳を傾ける。
まるで、些細な一言も聞き逃してはならないかのように。
しんどくないのだろうか?
彼が絶対に興味を持たないであろう話題。「親鸞聖人の生涯と教え」について語ってみた。
それでも彼は真剣に聞いている“ふり”をする。
頷きのタイミングすら、妙に計算されているように感じる。
そして夫を観察し始めてから3ヶ月が経過していた。
最近、夫の顔色が少し悪く、眠れない様子がみられた。
このままでは、彼がストレスを溜めすぎてしまうのではないか。
そう思い始めた矢先。
彼の残業が増え始めた。
「最近、仕事が忙しいんだ」
そう言われ、私はただ微笑んでうなずいた。
けれど、私は知っている。
これは、本当の忙しさではない。
彼は、この家を避けている。
私と過ごす時間そのものが、負担になっているのだろう。
週末は、あれほど積極的に私と過ごしていたのに、最近は「疲れてるから」と言い、一人で過ごす時間が増えた。
それでも、私は問い詰めなかった。
問い詰めたい気持ちはある。
理由を知りたいとも思う。
でも、それをしたところで、彼の本音が聞けるとは思えない。
私は、待っているのだ。
彼が自ら罪を告白し、私に謝罪するのを。
問い詰めることで引き出す言葉ではなく、自らの意思で告げるものを。
***
久しぶりに報告も兼ねて佳乃とランチをしに来た。
「3ヶ月か……」
「そうね、彼、よく頑張ったと思うわ」
「それでも浮気を謝ったり、当時のことに触れようとはしなかったのね」
「ええ、3ヶ月一度もその話は出なかった。彼は罪悪感はあったはずだし、反省もしていたと思う。行動で表していたからね。なんか私の言いなりになっていた感じで、可哀そうに思えてきたの」
「加奈もさ、林優香のことには触れず、よく頑張ったわよね」
「最初は、浮気の証拠を取るために、知らない振りを続けたんだけど。彼女と接触した様子はなかったわ。多分完全に彼女を切ったと思う」
私が林優香との電話の会話を録音していた事実を夫は知らない。
それ自体なかったことにしようとしているけれど、妻が100万要求してきたり、高級品を強請ったりしていたことから、浮気の代償としてそれを支払ったと思っているんだろう。
「……で、どうするの?」
「離婚、してもいい。慰謝料分のお金は、もう彼からもらったから。そろそろ彼を解放してあげる時かもしれないわね」
「加奈はそれでいいの?」
「ええ。それでいいわ」
佳乃はぽかんと口を開けた。
「加奈、あなた山上さんを愛しているでしょう?だって、浮気されても許そうとしていたじゃない。なのにそんなに簡単に離婚してもいいの?」
「そうね、彼のことは嫌いになれない。最近は彼を観察するのが面白くて、一緒にいるのが楽しかった」
「それなのに離婚するの?」
「彼から、離婚したいって言われたらすんなり受け入れるつもりだったけれど、言いだしそうにないからね。私からそれとなくそういう方向へ持って行くつもりよ」
「話し合ってお互いの愛情を確かめ合うとかはないの?」
その機会は3ヶ月あった。
けれど、夫は話し合うことをしなかった。
「彼は浮気のことに触れられたくないのよ。何もなかったように振舞っているからね。だから、離婚理由としては性格の不一致とかそういうことになるんじゃないかしら」
「それで本当にいいの?」
私は、ただ静かに頷いた。
話し合いを待っていた時間は、長く感じられるかもしれないけれど、その間に彼の態度や行動がどう変わるのか、私の中でどんな感情が生まれるのか、自分自身を見つめる時間にもなったと思った。
これからは夫がいなくても生きていける。自分だけの幸せの道を探そうと思う。
「大丈夫よ、佳乃、これからもたくさん一緒に遊んでね」
「それは構わないけど……」
私は生ビールのおかわりを注文して、佳乃にもう一度乾杯しようと促した。