第12話 山上斗真
最悪の事態になってしまった。
まさか、遊びで付き合っていた相手に、不貞を暴露されるとは思ってもいなかった。
軽い気持ちで体を重ねたが、俺の感覚では、そういう関係を仕事として受け入れている子だと思っていた。
優香にはブランド物のバッグをプレゼントし、豪華な食事にも連れて行った。
強請られて九州へ旅行にも行った。俺としては十分な対価を渡しているつもりだった。
なのに、まさか彼女が妻に関係をバラすとは思ってもいなかった。
頭の中がぐちゃぐちゃになる。どう考えてもおかしいだろう。
浮気相手は妻から訴えられる可能性がある。それを分かっていて秘密にするのが普通だ。
それなのに優香はそんなことも理解していなかったのか。
俺は頭を抱え、深いため息をついた。
彼女とは、もう1ヶ月も前に別れている。
どうも妻に旅行の件を気付かれている気配があったからだ。
加奈は貞淑な女性で、妻として申し分ない存在だった。
確かに倦怠期だったことは認めるが、だからといって離婚を考えたことはなかった。
それなのに、たかだか遊びの関係で、夫婦の絆を壊されることに憤りを感じる。
俺の人生は、こんな些細なことで崩れるものだったのか?
百歩譲って、優香が俺に「関係を妻にバラすぞ」と脅迫するならまだ理解できる。
だが、先に妻に暴露してしまってどうするつもりだったのか?
今日はどうしても彼女に会わなければならない。
妻と離婚するつもりはないとはっきり告げる。
そして証拠の写真を削除させる。
法的な意味はないが、誓約書にもサインさせる。
形として残しておけば、いざという時の保険になるだろう。
もう妻に知られてしまった以上、それを理由に俺との関係を続けようとは思わないはずだ。
少し強引ではあるが、今後俺の周りに関わってきたら、名誉毀損で訴えるつもりだった。
彼女の軽率な行動が招く結果を、きちんと理解させなければならない。
とりあえず、どのような証拠が残っているのかを確認することが重要だ。
感情的な行動ではなく、冷静に次の一手を考えることが、今後の展開を左右する。
***
昨日の電話で、優香がある程度、自分のしたことを反省していたように感じた。
久しぶりに会った彼女は、顔色も悪く泣きはらしたようで瞼が腫れていた。
だが、それを気の毒に思う気持ちはこれっぽっちもない。
「君は妻から訴えられて、慰謝料を取られる可能性がある。それは覚悟してくれ」
鋭く言い放つと、彼女は驚愕した表情を浮かべる。
「酷い! そんな、そんな大ごとにしようとは思ってなかった。奥さんに払うお金なんてないわよ!」
「ネットで検索すれば簡単にわかることだろう。不倫相手が妻に支払うべき慰謝料について、いくらでも情報が出てくる。妻という立場は絶対なんだよ」
「私はただ……斗真さんは奥さんと冷めきった関係だって言ってたから、ちゃんと教えてあげただけ。なのに、私と別れるなんておかしいじゃない! 奥さんが離婚すると言えば、別れなくて済むでしょう? 別に私と再婚してほしいなんて言ってないわよ」
「ありえない。たとえ妻と離婚することになったとしても、その原因は君にある。そんな状況で、俺が今後君との関係を続けたいと思うはずがないだろう?」
「……うっ」
「優香、お前が妻に話したせいで、俺は慰謝料を支払うことになる。それもすべて分かった上でやったのか?」
彼女は少し唇を噛みしめた後、開き直ったように言う。
「あなたはお金持ちだからいいじゃない。でも私はそんなお金ない」
ため息が出そうになる。
「今ならまだ何とかなる。君は証拠の画像をすべて削除して。クラウドからも消して。他に同期はしてないよな? PCないって言ったからな。とにかくスマホだけなら、ちょっと貸して」
優香は黙ってスマホを差し出した。
物理的に破壊したい衝動に駆られたが、それはさすがにまずい。
慎重に時間をかけながら、彼女のスマホから俺の痕跡をすべて消していった。
「分かっていると思うけど、今後俺に接触してくることは禁じるよ。もちろん会社や、妻、俺の友人たちとも接触しないように。これが誓約書だ。300万支払うことになったら、君も困るだろう?」
彼女は俯いたまま、小さく答える。
「はい……分かりました」
「俺たちの関係はなかったことにする。もし慰謝料請求があれば、君が払えなかった場合、ご両親にまで迷惑がかかるんだ。そのことも十分考えて、この先の行動に気を付けてくれ」
「親に連絡なんてしないで!」
「これ以上、俺に関わってこなければそうはならない。何もなかったと言い切れば、証拠はないんだから大丈夫だ」
静まり返った空間に、彼女の泣き声だけが微かに響いていた。
俺はできるだけ優しく、「他にはないね?」と優香に訊ねた。
彼女は視線を泳がせる。
くそっ……まだあるな。
直感的にそう思った。
「隠していると後々面倒になる。今、全部正直に話してほしい」
優香はためらうように唇を噛み、しばらく沈黙した後、ぽつりと口を開く。
「旅行へ行ったときに……奥さんのSNSに写真を送ったの……」
「なっ……!」
内側からこみ上げてくる怒りを、かろうじてこらえる。
拳をぎゅっと握りしめ、深く深呼吸をする。
優香は、俺と旅行へ行っていたときに、妻に写真を送ったという。
詳しく聞くと、それは博多駅前で記念に撮ったときのものだという。
決定的な証拠写真ではない。
しかし、女と博多へ行ったという事実だけは、確かに伝わるものだった。
一度送ったなら、もう保存されている。
今さら消すことなどできない。
つまり、九州旅行は仕事ではなく、浮気相手と一緒だったとバレている。
そうだ。結婚記念日を忘れたあたりから、多分、妻はすべて察していた。
今考えると、確かに気付かれているような兆候があった。
『他に好きな人ができたなら、私は身を引く』
妻がそう言った日のことを思い出す。
その言葉は、胸の奥に棘のように引っかかり、時間が経っても消えない。
九州になんか行くんじゃなかった。
今さら後悔が押し寄せる。
あの日、もしかしてバレているかも、と疑念がよぎった瞬間に引き返せばよかった。
だが俺は、「これで最後にしよう」と決め、優香とともに九州へ向かった。
そして、今。
その決断の結果が、俺のすべてを狂わせている。
離婚になるのは、俺の軽率な行動が招いた結果だ。
彼女には何の非もない分、俺への風当たりは強くなるだろう。
社会的な立場もある。俺の会社は今、コンプライアンスに厳しく、不倫が原因で離婚になったと知られれば、出世にも響くかもしれない。
だが、それ以上に、俺は妻を傷つけた事実と向き合わなければならない。
すべてを話し終え、優香と別れ、時間を確認すると、すでに0時近くになっていた。
彼女が家を出て行ってから6日。
加奈からは「今日帰る」との連絡が入っていた。
スマホの画面をじっと見つめ、重いため息をつく。
「初日から、日をまたいで帰宅とか……有り得ないだろう……」
行く先の見えない不安が、厚い雲のように心を覆い尽くしていく。