思い出のスノードーム
思い出は、スノードームに似ている。
手のひらのなかに出来事をふわりと再現して、胸のうちに繊細な気持ちを呼び起こすスノードームに。
そして私は、そんな思い出たちを客観的に見つめることが好きな気がする。
既に通った道、既にものにしたはずのあれこれを、過去の遺物として現在の視点で見つめ直す。懐かしさに高揚しつつ、戻ることのできない現実に打ちのめされる…。
もしかすると、私はこのときの心地よい痛みを求めて、思い出の反芻をずるずると続けているのかもしれない。
スノードームは思い出の数だけあって、それぞれに違った尺の思い出がおさめられている。その中には、ほんの一瞬の出来事だってある。強烈で中身の濃いものならば、時間がどんなに短くとも、スノードームの素材になり得るのだ。
反対に、ワンシーズンのすべてが素材になることもある。ひと夏を彩った、うるさいくらいの蝉しぐれ、蚊取り線香の昔懐かしいかおり、夏祭りの暗いなかの熱気。そんなものたちが、そのシーズンにとっての普遍的なかたちで、スノードームにうまい具合におさまる。
時々、思い出のスノードームの中に入り込みたいと思うことがある。眺めるだけでなく、そのさなかに飛び込んで、もう一度、その瞬間の主人公になりたいとやっぱり思う。しかし、ドーム状の容器がそれをさせない。出来事は、過去―思い出―になった途端に、主観では味わえなくなるのだ。その法則は、たとえ、思い出と同じシチュエーションに立つことになっても、変わらない。この場合、出来事は現在の延長線上に、まったく新しいものとして記録されていくのだろう。なんの不思議もないことなのに、かなしい。
人間はとかくにないものねだりだ。
思い出も、思い出であるから愛おしい。
今日の悩みも、ありきたりな生活も、手のとどかない“思い出”に昇格したころには、魅力や深みを持っているのだろう。
もどかしいし悔しい。
けれど、いまこの瞬間も、近い将来、思い出として私を魅了するというのだからおもしろい。
ことしの夏は、スノードーム何杯分にあたるだろうか。