2 激昂する婚約者
シン・ジュードはダークブラウンの癖のある髪を後ろで一つにまとめた、長身痩躯の青年だ。ピンク色の瞳に甘いマスクとあって、見た目よりも若く、童顔に見えるということで、老若問わず彼の本性を知らない女性に人気でもある。彼はミフォンの幼馴染であり、ファンクラブに入ってはいないものの、彼女のことを特別視していた。
ミフォンは甘い声を出して、シンに身を寄せる。
「どうしてシンがここにいるの? もしかして、わたしがここにいると思った?」
「そうだよ。手紙に書いてくれていたじゃないか」
「ええ? やだ! ほんとに? リリスに会いたかったんじゃなくって、わたしに会いに来てくれたの?」
「リリスに会えるのも嬉しいけど、なんだろう。今日の僕は無性に君に会いたかったんだ」
シンにとっては悪気のない言葉だが、リリスの胸は痛み、その痛みに耐えるために目を伏せた。その様子を見たミフォンは一瞬だけ笑みを浮かべたが、すぐに悲し気な表情を作る。
「もう! シンったら! そんなことを言ったらリリスが変な誤解をしちゃうじゃない! ねえ、リリス! わたしとシンはそういう関係じゃないからね!」
(どういう関係よ)
そう思いながら伏せていた目を上げて、冷ややかな視線を二人に送った。
「リリス、僕とミフォンの仲を知っているだろ? 怒ったり、ミフォンをいじめるとか馬鹿な真似はしないでくれよ? 僕の婚約者として恥ずかしい真似はしないでくれ」
「そうですね。そんなくだらないことをするつもりはありません」
そう言って頷いた時、彼女の耳に先ほどの令嬢たちの話し声が聞こえてきた。
「ディル様がいらっしゃるのに、よくもまあ人の婚約者にベタベタできるわね!」
「ジョード伯爵令息も、婚約者の前で他の女性といちゃつくなんて、自分の行動が常識がないことだと認識できないのかしら」
(それは私も同意見だわ。でもね、この二人は自分の都合の良いようにしか物事を考えられないような人たちなのよ。この人たちと一緒にいたら、生きていくのも嫌になる。今からでも、あのグループに入れてもらえないだろうか)
意を決して口を開こうとした時、シンが女性たちを怒鳴りつける。
「いい加減にしろ! ミフォンが可愛いくて性格が良いからって嫉妬しているんだろうけど、ミフォンの良さがわからない君たちのほうが常識がないからな!」
「「「「まあ!」」」」
呆れたと言わんばかりに、4人の令嬢たちは声を上げると、抗議するかのように一斉に立ち上がった。その中のリーダー格の女性の伯爵令嬢がリリスに話しかける。
「ノルスコット子爵令嬢、悪いことは言いませんわ。付き合う方を考えたほうがよろしくてよ。もちろん、婚約についてもです」
「お心遣い痛み入ります」
立ち上がって一礼すると、ミフォンが泣き真似を始める。
「酷いっ、わたしにはリリスしか女友達はいないのにっ! どうしてわたしとリリスを引き離そうとするの? それに、どうしてリリスはわたしを庇ってくれないの? シンと仲が良いから!? ああ、そう! わかったわ!」
ミフォンはまくし立てるように言うと、がばりと顔を上げてシンに宣言する。
「シン! わたし! もうあなたと会わないわ! だって、リリスに嫌われちゃうもの!」
「何を言っているんだよ! リリス! 今すぐミフォンに謝ってくれ! 頼むよ!」
こんなやり取りは今までに何度もあった。ミフォンが関われば、どんな状況であってもリリスが悪者だ。
ミフォンとシンの仲を知るまでは、リリスは純粋に婚約者に恋をしていた。彼との婚約の話が持ち上がった時には本当に喜んだものだ。だが、リリスは彼の本当の気持ちに気づいてしまった。シンはミフォンとの繋がりを保つために、自分と婚約したのだとわかった時は絶望した。
幼馴染ばかり優先する婚約者に耐えられず、婚約の解消を願った彼女だっだが、それはシンや彼の両親によって毎回却下された。
シンはリリスが自分のことを愛していて、気にかけてほしいがために、そんなことを言うのだとミフォンから吹き込まれていた。
黙り込んだリリスを見たミフォンは、楽し気に悲劇のヒロインを演じる。
「いいのよ、シン! 悪いのはわたし! ねえ、リリス! もう、シンと仲良くしないわ! だから、これからもわたしと仲良くしてね!」
「ちょっと待ってくれ。リリス! 君のせいで僕は大事な友人をなくすことになる! どうしてくれるんだ!」
婚約者を責め立てるシンを見た令嬢たちは、大きなため息を吐き、支払いを済ませて店を出ていった。
「待ってください!」
シンは令嬢たちを追いかけようとしたリリスの手首を掴むと、彼女を無理やり椅子に座らせた。
「大して知らない令嬢の話に惑わされないでくれ。友人がほしいのか? 君にはミフォンがいるだろう? ほら、大事な友人を悲しませているんだから謝るんだ」
「もう嫌です! こんなことになるくらいなら、ミフォンとの縁を切ります!」
「リリス! 自分が何を言っているのかわかってるのか!」
出ていった令嬢たち以外にも店内に客はいたが、伯爵家よりも上の爵位を持つ人間はいなかったため、シンを止められる者はおらず、みな、黙ってリリスに同情の目を向けている。
「黙り込んでないで、謝るんだ! 子供でもできることだぞ!」
「嫌です!」
「お願い、リリス! わたしを見捨てないでぇ!」
縋り付いてくるミフォンを避けるために立ち上がると、シンが声を荒らげる。
「どうして今日はこんなに聞き分けが良くないんだよ! 謝るだけでいいんだぞ?」
「悪いことはしていません! 友人を選ぶ権利は私にもあるはずです!」
「リリス、君はさっきいたような失礼な人たちと友人になりたいって言うのか?」
「ええ、そうです!」
「ふざけたことを言うのはやめてくれ!」
シンはリリスの両腕を掴み、彼女の体を勢いよく前後に振りながら叫ぶ。
「目を覚ませ!」
「放して! 放してください!」
見ていられないと店内の客たちは目を伏せた。店員は貴族ではなく平民だったため、間に入ることができない。だが、このまま何もせずにはいられず、店員の一人が騎士に助けを呼びに行こうとした時、店の扉が開いた。中に入って来た人物たちを見た店員や店内の客たちは、安堵のため息を吐き、無言で助けを求めた。男たちは頷き合うと、すぐに騒がしいテラス席に向かう。
「謝ることもできないなんて殴られないとわからないのか!」
「殴られたってわかりません!」
「このっ!」
シンが右手を振り上げると、慌ててミフォンが止めにかかる。
「シン! わたしのことを思ってくれて本当に嬉しい。でもね、あなたが一番に考えるべきなのはリリスのことだわ」
「それはわかってる。だけどね、君のことも大事だよ! 君は僕の大事な幼馴染なんだから」
「……シン!」
リリスを解放したシンがミフォンと向き合って言うと、ミフォンは感激した様子でシンの胸に飛び込んだ。それを見たリリスは、馬鹿馬鹿しい気持ちになり、今、自分は舞台を観劇しているのかしらと、現実逃避しそうになった。
「ミフォン、駄目だよ。こんな所を見られたら君の立場が悪くなる」
「大丈夫。誰も見ていないわ。あ、違った。リリス以外の人には見られていないわ」
小柄なミフォンはシンの体に完全に隠れることができるため、店内からはミフォンがシンに身を寄せている光景を見ることはできない。ミフォンは悪びれる様子もなく、シンの胸に頬を寄せてリリスに謝る。
「リリス、本当にごめんなさい。これもね、彼を意識していないからできることなの」
「そうだよ。リリス、ミフォンが優しくて本当に良かったな。でも、人の心を傷つけることは良くない。ほら、謝るんだ」
シンはミフォンの肩を抱き、リリスを冷たい目で見つめた。
リリスの中では伯爵令息であるシンを怒らせれば、父や兄に迷惑をかけてしまうという遠慮がある。いつもなら、ここで折れていた。でも、今日のリリスは違った。
「謝りません!」
(絶対に謝りたくない)
強い意思を持って叫ぶと、シンは激昂する。
「謝れって言ってるだろう!」
「ふざけんな。謝るのは彼女じゃない。お前だよ」
シンの叫びに応えたのは、リリスではなく先ほど、店に入って来た男たちの一人だった。カツカツという足音を立ててテラスにやって来た男の姿を確認し、リリスは思わず声を上げた。
「どうしてあなた方がこちらに?」
「仲間を探して歩いていると、数人の女性から助けを求められたんです」
腰に剣を携えた屈強な男がリリスに答える。数人の女性とは、先程店を出ていった令嬢たちのことだ。
「もう! 誰ですか? こっちは大事な話をしてるんですぅ」
シンから身を離し、ぷくっと頬を膨らませたミフォンは、男たちの中に自分がよく知っている人物がいることに気がついた。
「ど、どうして」
焦った表情でシンから遠ざかるミフォンに、息を呑むほどに整った顔立ちの若い男が答える。
「誰が来たかって? 俺のことを知らないのか。婚約者の顔に似ているなと思ったが人違いだったようだな」
皮肉な笑みを浮かべたのは、ミフォンの婚約者であり、シンが所属している第8部隊の副隊長である、ディル・エイトだった。