第6話 バター香る交渉戦
私は屋台の前に進み出た。目の前には、美味しそうな焼き菓子がずらりと並んでいる。バターの香りがふんわりと漂い、思わずお腹が鳴りそうになる。
「失礼いたします。あの……」
私が声をかけると、店頭に立っていた少女がはっと顔を上げた。年の頃は私と同じくらいだろうか。艶やかな赤毛をきちんとまとめ、上品な制服を着こなしている。彼女は一瞬戸惑ったような表情を見せたが、すぐに営業スマイルを浮かべた。
「……! ようこそ、お求めのものはございますか?」
彼女の接客は丁寧で、愛想も良い。しかし、客足はほとんどない。この屋台がどうして人気がないのか、不思議だった。確かに商品は正統派――悪く言えば地味な品が多い。それが原因かもしれないが……。
そんなことを考えながら値札を見た瞬間、私は思わず「えっ」と声を上げそうになり、慌てて飲み込んだ。他の屋台で売っている焼き菓子よりも、ゼロがひとつ多い……!
とはいえ、ここのお菓子が紅茶に合いそうだというのは紛れもない事実。私は気を取り直し、交渉に移る。
「申し訳ありません。実は買い物ではなくて、ご相談がありまして」
「え……?」
少女の笑顔が一瞬こわばる。迷っていても仕方ない。私は思い切って話を切り出した。
「こちらのお菓子、とっても素敵です。でも、紅茶と一緒に頂きたいようなものばかりじゃありませんか?」
「紅茶? 確かにうちのお菓子には紅茶が合いますけど……」
少女は驚いたようにまばたきする。これは、もしかして今までで一番の好感触かもしれない。私はつい身を乗り出す。
「そ、そうですよね! でしたら、私たちに屋台の片隅を貸してくださいませんか? そうすれば、美味しい紅茶を——」
と、その時。
「お客様じゃないなら帰って下さい。商売の邪魔だ」
奥から聞こえた威厳ある声に、私は思わず口をつぐんだ。姿を現したのは白髪交じりの壮年の男性。鋭い眼光を持つその人物が、一歩、また一歩とこちらへ近づいてくる。
「いえ、そんなつもりはないんです! きっとこの屋台のためにも——」
食い下がろうとしたその時、私の横から、穏やかで品のある声が響いた。
「ご無沙汰しております」
驚いて振り向くと、そこにはアレクシスがいた。彼は一歩前に出て、私の肩越しに低い声で囁く。
「彼は『ゴールデン・ローフ』という貴族向けの高級ベーカリーの店主です。かつてはウィンフォード家にもパンや焼き菓子を納めて頂いておりました。」
私は改めて彼を見る。気難しそうな、いかにも職人というような出で立ちだ。
「久しくお取引ができていないところ、急な訪問で恐縮です」
アレクシスは優雅に一礼する。その姿を見た店主——エドマンドは、不愛想に答える。
「ああ、貴方はウィンフォード家の家令の……」
「アレクシスでございます。エドマンド様。自ら屋台に立っておられるとは、随分と熱心でいらっしゃいますね」
エドマンドは目をそらし、少し気まずそうに口元を引き締める。
「ああ……まあ、はい」
「しかし、名店と名高い『ゴールデン・ローフ』が、こんな外れに屋台を出しているとは意外ですね。……そういえば、『クラウン・クラスト』は表通りの目立つところに出店しておりましたが」
アレクシスがさらりと口にした店名を聞いた瞬間、エドマンドの肩がぴくりと震えた。
「その店の話は……しないで頂きたい」
「え? ……どうして?」
エドマンドの頑なな態度に、私は思わず疑問を口にする。すると、アレクシスが店主にも聞こえるよう、落ち着いた口調で説明を始めた。
「シエナ様。『クラウン・クラスト』は、『ゴールデン・ローフ』出身の若手ベイカーが店主を務めているのですよ」
(元弟子が成功したおかげで、苦境に立たされている……ってこと? エドマンドさんの様子を見るに、彼はそれをよく思っていない。……なるほど、そこに付け込めってことね!)
私はアレクシスの意図を察し、あえて無邪気なふりをして言った。
「なるほど、お弟子さんの方が商売上手だったのかしら? だったら私たちが……」
「……!」
エドマンドの表情が険しくなる。しかし、ぐっと堪えるように目を伏せ、短く息を吐いた。
「ウィンフォード家は白パンを買う余裕もないと聞きました。冷やかしなら帰って頂きたい」
「ちょ、ちょっと……!」
強く拒絶され、私は焦る。しかし、アレクシスは落ち着き払ったまま、一歩前へと進み出た。
「お嬢様が大変失礼いたしました。しかし、私たちはきっとエドマンド様のお役に立てます」
「……何だと?」
エドマンドの目が鋭く光る。
「先ほどお嬢様が申し上げた通り、『ゴールデン・ローフ』のバターをふんだんに使用したお菓子には、紅茶がよく合います。屋台の傍らで私たちに紅茶を振舞わせて頂けないでしょうか? きっと物珍しくて今よりは人が集まるでしょう」
エドマンドは腕を組み、沈黙する。すると、ずっと彼の様子を伺っていた店先の少女が、おずおずと口を開いた。
「私は、おじい様がせっかく作ったお菓子を、もっとたくさんの人に食べてもらいたいです。何か出来ることがあれば、やってみてもいいのでは?」
その言葉に、エドマンドの眉がわずかに寄る。じっと考え込むように目を伏せ、何かを噛み締めるように唇を引き結ぶ。そして、しばし考え込んだ末にようやく口を開いた。
「……もし本当に紅茶を屋台で提供できるのなら、その一角を貸してやらんこともない」
「本当に?!」
私の声が弾む。すぐにでも喜びたいところだったが、エドマンドはまだ鋭い眼差しを向けたままだった。
「ただし、屋台で出す紅茶を一杯、振舞って頂きたい。紅茶が中途半端なものなら、逆効果になる」
「わかったわ!」
勢いよく答えたものの、指先にかすかな強張りを覚えた。エドマンドはカウンター越しにじっと私たちを見据える。その視線は、まるでこちらの覚悟を測るかのようだった。
――失敗は許されない。
私は深く息を吸い込み、決意を込めて拳を握る。
(ここからが本番だ。絶対に屋台の相乗りを勝ち取ってみせる!)




