とにかく(仮)なのです。
「そんなにいらないなら、私にちょうだい!!」
頭の中に突然、女性の声が響いた。切羽詰まったような声色と同時に視界が揺れた。
浮遊感を覚え、倒れそうになる体を支えるため足に力が入る。ただ足元がぬかるみにはまっているかのように重い。自分に何が起こっているのか把握できず、恐る恐る目を開けようとすると複数の男性の笑い声が聞こえてきた。
「おい、あいつびびってるぜ」
「やっぱり体がでかいだけで、はったりだったんだ」
「カイトさんがいないと何もできないくせに、俺らには威張りくさりやがって」
足元のぬかるみは水だったようだ。膝の下くらいまで、清流の流れがみえる。川?
そして声のほうへ視線を向けると、複数人の男たちが川岸からこちらへ向かって、なんだかわけのわからない、罵声のような言葉を発している。全員が薄汚れた、なんだか中世の時代を思わせるような服装。そのうちの2人がこちらに向かって弓矢をかまえているのが見える。
・・・気持ちが悪い、、、吐き気を感じる、日本語ではないのに聞いたこともない言葉が頭の中で勝手に翻訳されている。なにこれ、訳が、わからない。周りを見渡そうとしたときに、また視界が揺れた。必死で踏ん張っている足から力が抜けていく。
「薬が効いてきたな」
「とりあえず、これは事故ってことでカイトさんには報告するから、お前らは口をすべらせるんじゃねえぞ」
そんな言葉を聞きながら、私の体は水の中へと倒れていった。
「アルドラムダ様!アルドラムダ様!」
何だか自分に向かって発せられているような声。体も揺すぶられているようだ。ゆっくりと目を開けると、心配そうな黒の瞳と目が合う。男の人?
・・・誰?
声を発しようとしたが、音にならなかった。ただ口をパクパクと金魚のように動かすことしかできない。
「これを飲んでください」
黒い瞳の青年に体を起こされ、竹の筒のようなものが口元へ運ばれる。普段なら知らない人から差し出された得体の知れない液体なんか飲みはしないが、思いのほか喉が渇いていたようで体に抗えずに甘い液体を飲み干す。なんてことはないただの水なのだが、とても甘く感じるほど体は渇いていたようだ。青年から竹の筒をなかばひったくるようにして水を飲むと、ようやく体は一息落ち着いたのか力が抜ける。目の前の青年は安堵の表情で空になった竹の筒を自分の腰に結びつけている。長めの黒髪からは水が滴り、頬に張り付いていた。現代ではみたこともないような、歴史の教科書の弥生時代みたいな変な服装も水を吸って重そうになっている。服からのしずくで渇いた地面に小さな水たまりがいくつかできていた。ぼんやりと青年の服から滴る水滴を見つめる。ここが地獄というところなのだろうか?さっきの川は三途の川だったのだろうか、あの男たちは三途の川の人?
いろいろな疑問が浮かぶが、とにかく1つだけ確かなことは、ここにいる前の自分はマンションの屋上から飛び降りようとしていたことだ。名前も知らないマンションの屋上に吸い寄せられるようにやってきた。そこから見下ろす夜景は思いのほか綺麗だった。フェンスをよじ登るのは大変だったけど、変な使命感に燃えて疲労は感じなかった。屋上に吹き付ける風を全身で受け止めると、初めて自由を感じたような気がした。空に浮かぶ大きな月は手を伸ばすと届きそうだった。
生きることにうんざりしていた。誰も自分を見てくれなかった。私は一生懸命頑張ってきたのに、誰も認めてくれることさえなかった。私は悪くない、私をこんな思いにさせた親や周りの奴らが悪いのだ。
きっと今頃、あの人たちは後悔に苛まれているだろう。でも、今さらもう遅い。ざまーみろだ。内心で笑ってみる。
服から水を絞り出しながら、青年はこちらへ視線を向ける。いまさらながらその端正な顔立ちに驚いた。その恐ろしく整った、小さい顔に笑顔が溢れる。年齢的には20代半ばくらいだろうか、日本人にしては少し彫の深い、どちらかというと沖縄出身の男性アイドルに似ている。そして滑らかそうな肌には加工したかのようにしみ1つない。
「自分がアルドラムダ様から離れてしまったばかりに危険な目に合わせてしまい、すみません。すぐに火を準備しますから」
言うだけ言って、青年は背を向け木々の奥のほうへと歩いて行った。端正な顔に似合う、すらりとした背中を見送ると腰に下げられている装飾品に目が行く。刀?いや、大きさ的に剣っていうのかしら。革で作られた入れ物に剣のようなものが収納されている。奇妙な違和感が浮かぶ。ここって、地獄なんだよね?あのアイドルみたいな顔の人って私の案内人?もしかしたら天国なのかも?それより自分に向かってアルドラムダ様って言ってなかった?アルドラムダ様ってなに?なんか名前っぽいけど、私じゃないし。アルドラムダサマ?って何かの敬称?それよりも、さっきの人たちと一緒で日本語ではないのよね。まあ、あの世にはいろんな世界の人がやってくるだろうから日本語のほうがおかしいか。
考えるのを放棄して、地面に寝転がる。濡れた服が背中に張り付く感触があり不快に感じた。全然気が付かなかったけど、自分もずぶぬれのようだ。そういえば、三途の川に落ちたんだった。あの世ってこんなとこなんだね。頭上を背の高い木々が青々と生い茂っていた。木々の枝葉の隙間から青空がのぞいている。ゴロンと体の向きを変えると、近くに川原と川がみえた。ああ、さっきの人が川から助けてくれて、ここまで引っ張ってきてくれたのか。川の流れは穏やかなのか、水の流れる音はこちらまでは聞こえない。ここはあの世のはずなのに、どこにでもあるような普通の景色に幾分かがっかりしながら、いつの間にか眠ってしまったようだ。
目を覚ました時は、暗闇に浮かぶ火の明かりと焚火の温かさ、ぱちぱちと火の爆ぜる音、そして先ほどの黒髪の美青年の姿だった。身体はもうなくて、魂だけの存在のはずなのに、眠るってどういうことなんだろう。そして、火にかけられている鍋から湯気と美味しそうな匂いが立ち上っており、匂いを嗅いだ瞬間、空腹感も襲ってきた。普通の人間のような感覚。何かがおかしいけど、なんなのかははっきりしない。
「アルドラムダ様、起きられましたか。ちょうど夕食ができたところです。召し上がられますか?」
こちらの視線に気が付いた青年が声をかけてくる。私は、ゆっくりと半身を起こすと自分の体に違和感を覚える。なにこのごつい腕、、、。さっきまで気が付かなかったが、明らかに腕や手が自分の見慣れた体よりも一回り以上大きくなっている。腫れているとかじゃない、頑丈な筋肉で覆われている。手のひらを開いたり閉じたりしてみる。自分の意志どおりに、ごつい手は開閉を繰り返す。大きな胸ではなかったがそれなりにふくよかだった2つの胸のふくらみはなく、代わりに厚さのある筋肉の胸板、ボブの長さだった髪もなく短い髪が手に触れる、自分の覚えている足よりも、目に映っている足は2倍は太い。そしてその足には受け入れ難いが毛が生えている。これはどうみても
「男の体、、、」
自分の声の低さにびっくりして喉に触れる。そこには喉ぼとけがしっかりと男であることを主張している。死んだから魂は元の姿に戻るとかだろうか??これが、今の私の体なのかな。死んでしまったのだから、今までの自分の常識とは違うのだろう。そんな結論をまとめてみる。意外と混乱は少ない。まあ、こんなこともありか程度だ。だって、自分は死んでしまったのだから。ふと、本当に自分の行った行動は良かったのだろうか、と後悔と疑問が心をよぎった。頭を強く降り、後悔と疑問を振り払う。それは考えてはいけないことだ、私のしたことは正しかったんだ。あの人たちに一生消えない後悔を植え付けられたんだから。
「男性の体には違和感がありますか?受け入れずらいとは思いますが、あいつらに見つかるわけにはいかないですからね」
青年は困ったような表情を向ける。
「?」
なんなのだろう。この青年の言っている内容と自分の思い描いているあの世という、私は死んだはずで、ここはあの世であるという世界観に齟齬を感じる。何かが行き違っていて、それは多分、私のほうになにか間違いがあるような気がする。本当なら、この青年に聞かないといけないことはわかっている。あなたは誰なのか、ここはどこなのか、私は死んだのか、を。でも、もう一人の私が言っている。それを聞いたら、私の世界が崩れてしまうのではないか、と。もしかしたら、この状況は夢なのかもしれない。本当は私は死に損なって、今は病院のベッドで寝ているのかもしれない。目が覚めたら何か状況は変わっているはずだ。
私は、青年には何も返事はせず、差し出された夕食の椀を受け取り、準備してくれた簡素な寝床で、いろいろな疑問に蓋をして無理やり目を閉じた。
高齢の男性が「娘を孫を返せと」泣きながら、喚き散らしていた。
受付の机を挟んで上司が必死に対応している。
「私どもは所定の手続きに基づいて対応をしていただけでして、、、」
どうなることかと他の職員はひやひやしながら見守り、受付に来ているお客も遠巻きにこちらを伺っている。
生活保護課と書かれた札のデスクの一角で私は、パソコンを操作する手を止めない。首からは「加藤美子」と書かれた名札がぶら下がっている。
1年ほど前に、とある母親が保護の申請の手続きにきていた。規定に基づき審査をした結果、保護費は下りなかった。元の夫が養育費の支払いをする意志があったこと、実際には養育費は支払われない月が多く、あったとしても月3万円程度だったそうだが。母親は働いているのだが、まだ幼い娘は体が弱くしょっちゅう寝込むので、仕事に行けない日が続いたりもし、生活は困窮していた。母親の実家は資産家だったのだが、娘は駆け落ちのような状態で、親の反対を押し切って結婚をしており、父親の血が入った孫を迎え入れることを拒否していた。娘だけなら戻ってきてもいいが、孫は元夫に渡して来ないと援助はしないと言われていたらしい。そして母親が元々お嬢様だったことも生活の困窮に拍車をかけた、生活レベルを下げることが難しく、体の弱い娘のためにもと食料品はオーガニックのものなどを購入していた。そして、母娘は変わり果てた姿で発見されることになる。死因は餓死だ。
この母娘の事件はマスコミも大々的に報じた。今もTVクルーが役所の前に来て、カメラに向かって役所の対応になにやら非難を訴えている。
上司と亡くなった娘の父親の様子に耳だけ傾けながら、私は自分の仕事をすすめる。忙しいのだ。正直、そんなことに構ってはいられない。保護の申請は増える一方、そして一般市民からのクレーム対応は理不尽なものが多い。保護費をもらっているAさんがスーパーで牛肉を買っていた。自分は働いているのに安い鶏肉しか買えないとか、Bさんをパチンコでみかけたとか、受給者からも保護費が足りないなどのクレームが入る。
この母娘の結果は残念なものであることは間違いないが、正直、母親は頭が悪いと思う。餓死するような状態になる前に母親はできたことがあるはずだ。両親を説得することや、とりあえず元夫に娘を預けて、後で迎えに行けるように、実家である程度、財産を蓄えるとか、夫の義両親に頼るとか、例え離婚の原因が夫からのDVだったとしても、夫に養育費をちゃんと払ってもらうように伝えるとか、できることを全部したのだろうか、と疑問になる。保護の申請に来た時も、簡単に保護費が出ると思ってきていた。国民の税金なのだ。簡単な手続きなわけがない。考えが甘いのだ。親の反対を押し切って結婚したところをみても自分のことしか考えていない自己中さがみえる。
そんなことを同僚との会話で話すと、
「加藤さんって割り切ってるね~」
と何やら含んだ返答をされた。
それで終わったのなら、よかった。この時の会話が変に脚色されて週刊誌に取り上げられた。母娘を対応した職員K氏、母娘が死んだのは自業自得との発言、という見出しがついて。
私の個人情報はすぐさまネットで拡散をされた。私宛の誹謗中傷が職場や自宅、実家、親戚にまで及んだ。見ず知らずの他人が自宅まで文句を言いにやってきた。「人間ではないとか。血が通っていないとか」。近所迷惑を理由に住んでいたアパートを追い出され、実家からは今、帰ってこられては困ると言われた。TVの取材が来たり、近所から娘の育て方が悪いと悪口をいわれたり、今までの静かな生活が一変し、突然殺人犯の加害者のような状況になったことを嘆かれた。
友人だと思っていた人たちは、話を聞いてはくれるが、手を差し伸べてくれる人はいなかった。自分に類が及ぶことを恐れることは仕方がない。私も自分の友人がもし自分の立場になったら、手は差し伸べないだろう。そんな付き合いしかしてこなかったのは私だ。
なんでこんなことになったのか、わからなかった。真面目に役所の仕事をしてきたつもりだった。
1つだけわかったことは、週刊誌に叩かれていたのが私の上司である職員Y氏から、職員K氏に代わったことだった。そして、職員Y氏は何とか保護費が出せるように頑張ったが、国の規定が許さなかったことを切に訴えていたことに対して、職員K氏は母娘の自業自得と切り捨てていた。マスコミはいろいろなコメンテーターを呼び、国の規定を検証し、必要なところに保護費が出ないことに疑問を呈した。そして、職員K氏の発言から、もっと親身になってくれていたら、母娘の事件は防げたのではないかと論じた。
この件で、仕事を解雇されるようなことはなかったが、私が出勤すると、クレームを言いに娘の父親や市民がやってきて仕事にならず、ほかの来場者にも迷惑になるという理由で、倉庫の書類整理の仕事に回されることになった。書庫は地下にあり、窓のない部屋と陳列しているたくさんの棚による圧迫感、書類のカビの臭いに気分が滅入っていった。
私は、何も間違えてはいない。私は、何も悪いことはしていない。ただ、ルールに従って真面目に仕事をしてきただけだ。一生懸命生きていた32年間を否定された気がしていた。
仕事の帰り道に、空を見上げると月がでていた。大きく円を描いている月がきれいだった。月をもっと近くでみたいと、見渡した時に高層マンションが見えた。
吸い寄せられるようにマンションの屋上からフェンスをよじ登り、そして、、、
はっと目が覚めた。
暗い夜は明け、朝日に照らされている。
昨日の晩と同じ場所で、焚火の炎が上がっている。そして、朝食の用意をしているのだろう黒髪の美青年の姿。
一晩たったが、変わらない光景になんとも言えない気分になる。これは、もう、確認をしなくてはいけない。このままでは、自分が前に進めない。
私は思い切って青年に声をかける。
「あなたは誰ですか」と。