怪人ヘドロ男
まるでピエロじゃないか。
面池蒼太は己の惨めさに歯を食いしばった。
あの子はやっぱり俺のことなんか好きじゃなかった。
あの子にしてみれば、俺に示した好意の数々も、本当に何のつもりもなく普通の友達にするのと同じようにやったということなんだろう。
OK、それは分かっている。大丈夫だ。
惨めな自分に直面するのはいつものことだ。そんなことには慣れてる。
だが、それが単なる強がりに過ぎないことを示すように、握りしめた蒼太の拳はぶるぶると震えていた。
俺はモテない男だから、女の子のちょっとした優しさにすぐにコロッと勘違いしてしまう。今回もそういうケースだったってだけの話だ。別に珍しくもない。レアケースでも何でもない。
悪いのは俺だ。勝手に舞い上がって、勝手に崖から落ちただけだ。
あの子は何にも悪くない。
そんなことは分かってる。
だからって、少しは俺に時間を与えてくれたっていいだろう。
心の整理をする時間を。
立ち尽くす蒼太の向こうには、一組の高校生カップル。
女子生徒は蒼太が密かに思いを寄せていた嶺田杏子。男子生徒の方は、蒼太は名前も知らないが、彼よりもすらっとして彼よりもイケメンであることは間違いない。制服の襟章から察するに、蒼太とは同級生。
蒼太は偶然目撃してしまったのだ。思いを寄せていた杏子が、彼氏と仲良く下校しているところを。
だがその二人は今、怯え切った表情をしていた。
彼らの前に立ちふさがるのは、身長二メートルはあろうかという怪人エオメーネウス。
“怪人”という概念が一般的になって久しいが、この黒々とした異界の金属製の身体を誇る怪人もご多分に漏れず、人間の恐怖の感情が大好物だった。
だからこそ、さっさと殺してしまえるにもかかわらず、こうしてわざと二人を観察しているのだ。
「泣けい」
エオメーネウスは言った。腹の底にずしんと来るような低い声。
「泣き叫べ。命乞いをしろ」
そう言うと、獣を思わせる顔をにやりと歪めた。
「そうすればもしかしたら、助けてもらえるかもしれんぞ」
怪人にそんな情けがあるはずはなかったが、もはやそれに縋るしかない二人が、涙ながらに「助けてください」と叫ぶ。
怪人はそれを愉悦の表情で聞いた。
「うむうむ。よいぞ。よい鳴き声だ」
耳に手を当てて、ゆっくりと満足そうに頷く。
「では、殺そうか」
やはり怪人には人間への慈悲など欠片もなかった。
そのとき、彼氏が男気を見せた。
「杏子ちゃん、逃げろ!」
そう言って彼女を後ろに突き飛ばしたのだ。
だが、それが怪人の不興を買った。
「勇気。誇り。自己犠牲」
そう言いながら、怪人は巨大な手で男子生徒の右腕を掴んだ。
「そういうつまらぬものを、我に見せるな」
ぐしゃり。
腕をまるで紙コップのように潰された男子生徒の悲鳴が響く。
「うわあああああ!!」
「亮介君!」
女子生徒が叫んだ。
「やめてぇ!」
「逃げろ、杏子ちゃん!」
「だから、そういう感情を見せるなと」
怪人が無造作に拳を振り上げる。
「言っているのが分からんようだな」
そのまま振り下ろす。男子生徒の頭は、トマトのようにぐしゃりと潰れた。
……はずだった。
「……何だ、お前は」
男子生徒の頭が潰される直前に、すんでのところで怪人の拳を受け止めた男。
それは、異様な姿だった。
灰色の溶けかけた粘土のようなヘドロが全身を覆っている。
まるでそれが生きた鎧のように男の身体の上で蠢いて、常に形を変えていた。
どろどろとしたヘドロからは、下水を煮詰めたような強烈な臭いがした。
「俺のことが、好き。俺のことが」
ヘドロに包まれた顔にわずかに覗く口が動いていた。
ぶつぶつと繰り返し呪文のように呟いている言葉は。
「杏子ちゃんは、本当は俺のことが好き。俺のことが好き」
「臭いな」
怪人が言い放つ。
「ひどく下卑た臭いがする。お前は下水で生まれた男か」
だが、ヘドロ男は怪人の声など聞こえないかのように呟き続ける。
「本当は俺のことが好き。あの時もあの時も、俺にだけ優しかった」
「亮介君」
女子生徒が泣きながら、男子生徒の無事な左腕を引っ張る。
「早く、今のうちに」
「ばかめ」
必死に逃げようとする二人を見て、怪人が笑った。
「逃がすものか。死ねい」
ヘドロ男の手を振り払い、手のひらを二人に向ける。
そこからあらゆるものを蒸発させる熱波が放たれた。
だが、それは二人まで届かなかった。
ヘドロ男の手がそれを受け止めていたからだ。
「さっきから邪魔をしおって」
怪人は怒りに顔を歪めた。
「何だ、貴様は」
それに対するヘドロ男の回答は奇妙なものだった。
「俺の彼女に手を出すな」
「彼女? 恋人ということか」
怪人は首を捻る。
「あの男が恋人ではないのか。そもそも貴様のような醜いヘドロ男に恋人など」
「杏子ちゃん杏子ちゃん杏子ちゃん杏子ちゃん」
ヘドロ男は呟いた。
「俺のことが好き俺のことが好き俺のことが好き」
「貴様も怪人か。出来損ないのヘドロ男よ」
エオメーネウスは拳を振り上げた。
「臭い。うせろ」
一撃。強烈なパンチを受けたヘドロ男は、泥を飛び散らせながら吹っ飛んだ。
「ふん。怪人の面汚しめ」
拳に付いたヘドロに少し嫌な顔をして、エオメーネウスはひらりと走り出す。
長い歩幅で、必死で逃げようとしている二人に簡単に追いついてしまう。
「どこへ行こうとしているのだ。まだ私の用件が終わっておらんぞ」
そう言って、楽しそうに腕を振り上げたとき。
「どーん!!」
突っ込んできたのは吹っ飛ばされたはずのヘドロ男だった。
「おらああああっ!!」
不快な臭いを撒き散らしながら、ヘドロ男はエオメーネウスに殴りかかる。
そのパンチを、よけるでもなくエオメーネウスは顔をしかめたまま受けた。
鈍い音が何度も響くが、怪人の金属製の身体は微動だにしなかった。
「臭い。汚い」
エオメーネウスはヘドロ男の頭を片手で上から無造作に掴む。
「失せろ」
まるで空き缶でも捨てるかのように、そのまま背後に投げ捨てる。
ヘドロ男はぐるぐると回転して、受け身も取らずに地面に頭から突っ込んだ。
飛び散るヘドロ。
だが、怪人がまだ何も言わないうちにもう立ち上がっていた。
「わああああ!」
叫びながら突っ込んでいき、エオメーネウスの胸を殴りつける。
「だから、汚いと何度言えば」
ため息交じりに怪人がヘドロ男の頭をもう一度掴もうとしたときだった。
ずしん、という衝撃とともに、怪人は一歩後退した。
「……なに?」
よろけた、だと?
この我がか?
怪人は驚きの目をヘドロ男に向ける。
「分かってたんだ本当は分かってたんだやっぱりこれも勘違いに過ぎないだろうってことくらい俺にだって」
ぶつぶつと呟きながらヘドロ男が拳を振り上げる。
ずしん。
怪人の身体が揺れた。
ずしん、ずしん、ずしん。
明らかに先ほどよりもパンチの威力が上がっている。
「なんだ、これは」
怪人はさらに二歩よろけて、信じられないものを見るようにヘドロ男を見た。
「ああ、本当は分かってたさ俺なんかにあんな可愛い子が似合うわけないってことくらいだけど夢くらい見たっていいじゃないか俺にだって夢を見る権利くらいはあるだろ」
呟き続けるヘドロ男。その呟きに呼応するように、全身から噴き上がったヘドロが渦を巻いてその身体を包んでいく。
「俺にだって俺にだって俺にだって」
ずしん、ずしん、ずしん。
「ぬううっ」
ついに怪人は両腕を胸の前で交差してそのパンチを防いだ。
「何だ、貴様は。その力は一体」
だがヘドロ男は答えなかった。ガードなどまるでお構いなしに、怪人の腕の上からパンチを叩きつけていく。
「ああくそ、俺は自分が嫌いだ自分が嫌いだ自分が嫌いだ自分が取るに足らない存在だって分かってるのにいつも身の程知らずに舞い上がっちまう自分が大嫌いだ痛い目見たって何にも成長してない自分が大大大嫌いだ」
めきっ、めきっ、めきっ。
さらに上がったパンチの威力に、エオメーネウスの両腕にひびが入っていく。
「ばかな、そんなばかな」
怪人は呻いた。
「こんなゴミのような男に、我の腕が」
殴り続けるヘドロ男の両目からは泥のような涙が流れ落ちていた。
「ああ俺はゴミだ間違いなくゴミだ杏子ちゃんの視界にさえ入ってはいけないゴミクズだそれなのに調子に乗っちまったいけるかもなんて一瞬だって思っちまったマジでこんな自分を殴ってやりたい」
「その不快な呟きを止めろおっ!!」
エオメーネウスは右腕を振り上げると、ヘドロ男の頬に拳を叩きつけた。
だが、今度はヘドロ男のほうが微動だにしなかった。
代わりに、ヘドロに焼かれた怪人の拳から煙が上がる。
「ぎゃああっ!?」
ガードの解けたエオメーネウスの胸に、ヘドロ男が拳を突き込む。
一発、二発、三発。
そのたびに怪人は後退した。
異界の金属製の胸にはすでに無数のひびが入っていた。
「やめろ」
エオメーネウスは叫んだ。
自分の拳が焼けるのも構わずヘドロ男の顔を殴りつけるが、ヘドロ男はびくともしない。むしろ、ますますパンチの回転が上がっていく。
めきっ! めきっ! べきっ!
「誰だ、何者なのだ、貴様は」
怪人は絶叫した。
「我の身体をここまで壊すなど、あり得ぬ、絶対にあり得ぬ、貴様は一体」
「俺は!」
ヘドロ男は叫んだ。
「俺は!」
俺は誰だ。俺は何だ。俺は。俺は俺は俺は俺は俺は俺は
「俺はあっ!!」
ぐしゃっ!!
ヘドロ男のひときわ強烈なパンチが怪人の胸を貫いた。
「俺は、ヘドロ野郎だ」
あくまでも自分に向けた内向きの言葉。怪人は何の答えも得られぬまま、崩れ落ちる。
「……ヘドロ、だと。意味が分からぬ」
最後にそう言い残して、怪人はその活動を停止した。
ヘドロ男は肩で息をしながら怪人の死骸を見下ろし、それからぐるんと二人を振り向いた。
「ひっ」
身体を寄せ合って身を竦める二人を悲しそうに一瞥した後。
ヘドロ男はその場から、まるで自分の方が負けて逃げ帰るかのような必死さで、逃走した。
怪人ヘドロ男。
いつか、劣等感で世界を救う男。