表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
87/134

087 蝶々夫人

 


「そんなことより信也。お前毎晩ここで草むしりやってるけどよ、仕事終わって飯食って、ちょっとは家でゆっくりしようと思わないのか? 何嬉しそうに、他人ん家(ひとんち)の庭の手入れなんかしてんだよ」


 相変わらず毒ある物言いの沙月に、信也が苦笑する。


「ははっ、なんででしょうね。実は俺もよく分かってないんですよ」


「なんだそりゃ」


「あやめちゃんの勉強も一区切りつきましたし、気分転換ってのもあると思います。ここしばらく、ずっと根を詰めてましたから」


「気分転換が草むしりってか。ほんと、変わったやつだな」


「草っていうか土……ですかね。ほら、人って大人になるにつれて、土に触れる機会が少なくなっていきますでしょ? 街のどこを見てもコンクリートだらけで、土が見える場所なんてほとんどない。でも俺、そういうのが嫌っていうか、ちょっと違うって思ってるんです。人間は土から離れるべきじゃないし、土の恵みをもっと感じるべきだと思ってるんです。

 だってほら、早希やあやめちゃんを見てください。中腰で草抜いて、これって結構重労働じゃないですか。でもずっと笑ってるし楽しそうです。それって、土と触れ合ってるからだと思うんです」


「……なんか小難しい理屈で攻めてきやがったな。早希、お前はどうなんだよ」


「私は馬鹿だから、信也くんの言ってること、半分ぐらいしか分かってない。でも信也くんの言う通り、結構楽しいかな」


「お兄さんと一緒なら、何をしても楽しい」


「妹には聞いてねえよ」


「でも沙月さん。折角立派な庭なんだし、手入れした方が絶対いいと思いませんか」


「私らは死人なんだ。あんたらと感覚も違うんだよ」


「沙月ちゃん、もっと素直になっていいと思うよ」


「涼音さん……」


「やあ涼音さん、こんばんは。今夜もお邪魔してます」


「信也さん、それに早希さんもあやめさんも。こんばんは」


「お邪魔してます」


「こんばんは涼音さん。それでそれで? 今のはどういうこと?」


「沙月ちゃんね」


「涼音さん、ちょっと勘弁してくださいって」


「いいじゃない。悪いことじゃないんだし」


「なになに? 沙月さんのヒ・ミ・ツ?」


「うっせえ早希、ちょっと黙ってろ」


「沙月ちゃんね、みなさんが帰った後で、少しずつだけど草、むしってるのよ」


「くっ……」


「そうなんですか? 沙月さん、今の本当?」


「いや、それはその……」


「信也くん信也くん信也くん」


「はいはい、あなたの信也はここですよ」


「またまた沙月さん、デレ子になってるよ。ほらほら見て見て、可愛いお顔が見る見るうちに」


「……うっせえよ、バーカ」


 赤面した顔を見られないよう背を向け、沙月は慌てて中へと入っていった。


「ほらー。怒らしちゃったじゃないか」


「えー、私のせいー?」


「ご、ごめんなさい。私のせい……」


「いやいや、涼音さんのせいじゃないですから。今のは早希がからかい過ぎたからで」


「ちょっとちょっと。なんで私だけのせいにするかな」


「俺は身内には厳しいんだ」


「ひっどーい」


「ふふっ」


「ふふふっ」


「ええ? 涼音さんとあやめちゃん、そこで笑う?」


「だって……お二人っていつもそんな風で、ほんと、見ていて飽きないから」


「分かる。と言うか、ずっと見ていたくなる」


「……あやめちゃんと涼音さんって、妙に気が合ってるよね」


「そう、かな……でも涼音さんと話してると、確かに和む」


「私も……あやめさんといると、心が穏やかになるかも……」


「イエーイ」


「イエーイ」


 あやめが手を挙げる。

 おそらくその手に、涼音がタッチしたんだと思うと嬉しくて、信也と早希が一緒に笑った。





「私、今日も聞かせてほしい。涼音さんの歌」


「うんうん、私も聞きたい聞きたい」


「そんな……恥ずかしい……」


「俺も」


 ラジカセを手に信也が微笑む。


「聞かせてもらえませんか。涼音さんの歌」


「信也さん……分かりました」


「では」





 流れてきたのは、オペラ『蝶々夫人』のクライマックス、『ある晴れた日に』。

 港が見える丘の上で夫の帰りを待つ蝶々が、メイドに向かって夫を信じていると気丈に歌うアリア。

 力強く美しい涼音の歌声に、辺りは幻想的な空気に包まれた。


「……お粗末様でした」


「いつ聞いても本当、素晴らしいです。ありがとうございました」


「私も歌、涼音さんに教わりたくなるよ」


「歌はいいと思うよ、うん……でも早希が歌うと、どれも演歌になってしまうから」


「しょうがないじゃない。ずっとおばあちゃんと一緒だったんだから」


「いやいや、悪いことはないよ。でもほら、早希って最近の歌でもこぶしが入るだろ? 蝶々夫人でこぶしは流石に」


「ひっどーい。こぶしの何が駄目なのよ」


「いやいや駄目だろ、蝶々さんには」


「ふふっ……でも早希さんと一緒に歌うのも、ちょっと楽しそう」


「だよねだよね。今度教えてもらえますか」


「うん。楽しみ」


「どうせなら、比翼荘のみんなも誘って」


「いいですね、それ。比翼合唱団」


「でしょでしょ? 実現したら絶対楽しいと思う」


 比翼たちの合唱か……早希の奇抜な発想に、信也が感心そうにうなずいた。

 そうだよな。幽霊にだって、目標があってもいいはずだ。そういう小さな積み重ねが、彼女たちの人生を豊かにするはずだ。そう思った。


「でもこの歌」


「どうしたあやめちゃん、難しい顔して」


「これって、アメリカ人の夫がアメリカに帰ってしまった物語だよね。このシーンは、その……夫に捨てられたけどまだ信じてる……そんな哀しい歌で」


「今の私たちみたい……ですよね」


「あ、その……ごめんなさい、変なこと言っちゃった」


「いいんですよ、その通りなんですから。私、元々この歌が好きだったんですけど、この姿になってからもっと好きになったんです……自分の境遇に酔ってるって訳じゃないんだけど」


「これ、そんな歌だったのか」


「信也くんまさか……知らないで聞いてたんだ」


「タイトルは知ってたけど、内容までは知らなかったって言うか……綺麗な歌だな、でもなんか、ちょっと哀しいな、ぐらいにしか思ってなかった」


「減点っ!」


「も、申し訳ありません」


「帰ったらちゃんと調べるよーに!」


「はい分かりましたすいません」


「ふふっ……やっぱりお二人、楽しい」


「いやいや涼音さん、ここでその返しはおかしいから」





「それでその……みなさんに相談したいことがあって」


「どうかしました?」


「はい、あの……沙月ちゃんのことなんですけど」


「沙月さん?」


「最近少し……悩んでるみたいなんです」


「悩み……」


「信也くんともうまくいってきたし、さっきも元気そうだったけど……ってまさか、信也くんに恋をしたとか!」


「妹になりたいとか」


「いやいやいやいや、おかしいから。お前らの反応おかしいから」


「ふふっ、やっぱり面白い」


「涼音さん、二人はスルーして大丈夫ですので。沙月さんがどうしたんですか」


「……沙月さんの元彼氏さん……近々結婚することが決まったみたいで……」


「え……」





「ええええええええええええっ!」




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ