087 蝶々夫人
「そんなことより信也。お前毎晩ここで草むしりやってるけどよ、仕事終わって飯食って、ちょっとは家でゆっくりしようと思わないのか? 何嬉しそうに、他人ん家の庭の手入れなんかしてんだよ」
相変わらず毒ある物言いの沙月に、信也が苦笑する。
「ははっ、なんででしょうね。実は俺もよく分かってないんですよ」
「なんだそりゃ」
「あやめちゃんの勉強も一区切りつきましたし、気分転換ってのもあると思います。ここしばらく、ずっと根を詰めてましたから」
「気分転換が草むしりってか。ほんと、変わったやつだな」
「草っていうか土……ですかね。ほら、人って大人になるにつれて、土に触れる機会が少なくなっていきますでしょ? 街のどこを見てもコンクリートだらけで、土が見える場所なんてほとんどない。でも俺、そういうのが嫌っていうか、ちょっと違うって思ってるんです。人間は土から離れるべきじゃないし、土の恵みをもっと感じるべきだと思ってるんです。
だってほら、早希やあやめちゃんを見てください。中腰で草抜いて、これって結構重労働じゃないですか。でもずっと笑ってるし楽しそうです。それって、土と触れ合ってるからだと思うんです」
「……なんか小難しい理屈で攻めてきやがったな。早希、お前はどうなんだよ」
「私は馬鹿だから、信也くんの言ってること、半分ぐらいしか分かってない。でも信也くんの言う通り、結構楽しいかな」
「お兄さんと一緒なら、何をしても楽しい」
「妹には聞いてねえよ」
「でも沙月さん。折角立派な庭なんだし、手入れした方が絶対いいと思いませんか」
「私らは死人なんだ。あんたらと感覚も違うんだよ」
「沙月ちゃん、もっと素直になっていいと思うよ」
「涼音さん……」
「やあ涼音さん、こんばんは。今夜もお邪魔してます」
「信也さん、それに早希さんもあやめさんも。こんばんは」
「お邪魔してます」
「こんばんは涼音さん。それでそれで? 今のはどういうこと?」
「沙月ちゃんね」
「涼音さん、ちょっと勘弁してくださいって」
「いいじゃない。悪いことじゃないんだし」
「なになに? 沙月さんのヒ・ミ・ツ?」
「うっせえ早希、ちょっと黙ってろ」
「沙月ちゃんね、みなさんが帰った後で、少しずつだけど草、むしってるのよ」
「くっ……」
「そうなんですか? 沙月さん、今の本当?」
「いや、それはその……」
「信也くん信也くん信也くん」
「はいはい、あなたの信也はここですよ」
「またまた沙月さん、デレ子になってるよ。ほらほら見て見て、可愛いお顔が見る見るうちに」
「……うっせえよ、バーカ」
赤面した顔を見られないよう背を向け、沙月は慌てて中へと入っていった。
「ほらー。怒らしちゃったじゃないか」
「えー、私のせいー?」
「ご、ごめんなさい。私のせい……」
「いやいや、涼音さんのせいじゃないですから。今のは早希がからかい過ぎたからで」
「ちょっとちょっと。なんで私だけのせいにするかな」
「俺は身内には厳しいんだ」
「ひっどーい」
「ふふっ」
「ふふふっ」
「ええ? 涼音さんとあやめちゃん、そこで笑う?」
「だって……お二人っていつもそんな風で、ほんと、見ていて飽きないから」
「分かる。と言うか、ずっと見ていたくなる」
「……あやめちゃんと涼音さんって、妙に気が合ってるよね」
「そう、かな……でも涼音さんと話してると、確かに和む」
「私も……あやめさんといると、心が穏やかになるかも……」
「イエーイ」
「イエーイ」
あやめが手を挙げる。
おそらくその手に、涼音がタッチしたんだと思うと嬉しくて、信也と早希が一緒に笑った。
「私、今日も聞かせてほしい。涼音さんの歌」
「うんうん、私も聞きたい聞きたい」
「そんな……恥ずかしい……」
「俺も」
ラジカセを手に信也が微笑む。
「聞かせてもらえませんか。涼音さんの歌」
「信也さん……分かりました」
「では」
流れてきたのは、オペラ『蝶々夫人』のクライマックス、『ある晴れた日に』。
港が見える丘の上で夫の帰りを待つ蝶々が、メイドに向かって夫を信じていると気丈に歌うアリア。
力強く美しい涼音の歌声に、辺りは幻想的な空気に包まれた。
「……お粗末様でした」
「いつ聞いても本当、素晴らしいです。ありがとうございました」
「私も歌、涼音さんに教わりたくなるよ」
「歌はいいと思うよ、うん……でも早希が歌うと、どれも演歌になってしまうから」
「しょうがないじゃない。ずっとおばあちゃんと一緒だったんだから」
「いやいや、悪いことはないよ。でもほら、早希って最近の歌でもこぶしが入るだろ? 蝶々夫人でこぶしは流石に」
「ひっどーい。こぶしの何が駄目なのよ」
「いやいや駄目だろ、蝶々さんには」
「ふふっ……でも早希さんと一緒に歌うのも、ちょっと楽しそう」
「だよねだよね。今度教えてもらえますか」
「うん。楽しみ」
「どうせなら、比翼荘のみんなも誘って」
「いいですね、それ。比翼合唱団」
「でしょでしょ? 実現したら絶対楽しいと思う」
比翼たちの合唱か……早希の奇抜な発想に、信也が感心そうにうなずいた。
そうだよな。幽霊にだって、目標があってもいいはずだ。そういう小さな積み重ねが、彼女たちの人生を豊かにするはずだ。そう思った。
「でもこの歌」
「どうしたあやめちゃん、難しい顔して」
「これって、アメリカ人の夫がアメリカに帰ってしまった物語だよね。このシーンは、その……夫に捨てられたけどまだ信じてる……そんな哀しい歌で」
「今の私たちみたい……ですよね」
「あ、その……ごめんなさい、変なこと言っちゃった」
「いいんですよ、その通りなんですから。私、元々この歌が好きだったんですけど、この姿になってからもっと好きになったんです……自分の境遇に酔ってるって訳じゃないんだけど」
「これ、そんな歌だったのか」
「信也くんまさか……知らないで聞いてたんだ」
「タイトルは知ってたけど、内容までは知らなかったって言うか……綺麗な歌だな、でもなんか、ちょっと哀しいな、ぐらいにしか思ってなかった」
「減点っ!」
「も、申し訳ありません」
「帰ったらちゃんと調べるよーに!」
「はい分かりましたすいません」
「ふふっ……やっぱりお二人、楽しい」
「いやいや涼音さん、ここでその返しはおかしいから」
「それでその……みなさんに相談したいことがあって」
「どうかしました?」
「はい、あの……沙月ちゃんのことなんですけど」
「沙月さん?」
「最近少し……悩んでるみたいなんです」
「悩み……」
「信也くんともうまくいってきたし、さっきも元気そうだったけど……ってまさか、信也くんに恋をしたとか!」
「妹になりたいとか」
「いやいやいやいや、おかしいから。お前らの反応おかしいから」
「ふふっ、やっぱり面白い」
「涼音さん、二人はスルーして大丈夫ですので。沙月さんがどうしたんですか」
「……沙月さんの元彼氏さん……近々結婚することが決まったみたいで……」
「え……」
「ええええええええええええっ!」




