072 それぞれの幸せ
「由香里ちゃん」
「はいです」
「抱き締めてもよかですか」
「え、なんですかそれ? それに私の体、幽霊同士でも触れないですよ」
「大丈夫」
そう言って早希は、由香里の体を両腕で包み込んだ。
「……たとえ触れなくても、こうして抱き締めることは出来る」
早希がそう囁き、微笑んだ。
「……お姉ちゃん」
「え?」
「お姉ちゃん……早希さんのこと、そう呼んでもいいですか」
「ま、まあ……別にいいけど」
「純子さん! 私、ついにお姉ちゃんが出来ました!」
「うふふふっ。由香里ちゃん、ずっとお姉ちゃんが欲しいって言ってたもんね」
「はいです! お姉ちゃん、いつか絶対、旅行に行こうね。お姉ちゃんに見せたい景色、いっぱいあるから」
「分かった。約束ね」
「やったー!」
由香里が嬉しそうに、早希の頭上をぐるぐる回る。
「比翼荘に住んでる人、由香里ちゃん以外にもいるんですよね」
「ええ。まあ住人って言うか、気が向いたら顔を出すって感じだけど。お世話してるわ」
「でもどうして、私たちの面倒を見てくれるのですか」
「どうしてって言われると難しいんだけど。私は生前、保育園で働いてたの。だからかな」
「だからって……説明、簡単すぎますね」
「うふふっ、でもそういうことよ。元々こういうことをするのが好きなの。それに私も戻った時、あなたたちと同じように寂しい思いをしたから。
私の時は、誰も傍にいなくて大変だった。どうやって暮らしていけばいいか、誰も教えてくれなかった。だからみんなの不安がよく分かる。そう思ったらね、いつの間にか声をかけるようになっていたの」
「純子さん、本当にすごい」
「比翼荘の管理人、純子さんはすごい人。みんなのお母さんだから。あはっ」
「純子さんはこうしてずっと、みなさんの世話をしてるんですね」
「ずっとって訳じゃないけどね。戻って5年くらい経ってからかな」
「じゃあそれまでは」
「主人と暮らしてたわ」
「え……」
「主人はそれなりに名の通った家の人でね、とても優しい人だった。私たちは子供の頃から、ずっと一緒だったの。由香里ちゃんと同じ、幼馴染ってやつね」
「……また幼馴染ですか」
早希の脳裏に、再び秋葉が浮かぶ。
「お姉ちゃん? また顔、怖くなってるよ」
「あ、あはははははっ、そんなことないない」
「私の場合は幼馴染であると同時に、許嫁でもあったの。親同士、仲がよかったから。
そして結婚。主人は家督を継いで地域のまとめ役になったんだけど、臆病で優柔不断な人でね、ほとんど私が仕切っていたの。でも幸せだった……私のことを愛してくれて、大切にしてくれた。
そんな時だった。私、急に倒れちゃってね。病院で検査したら急性の白血病。当時の医学では手の施しようがなくて、あっと言う間にお別れの時がきたの」
「……」
「主人は私の手を握って言ってくれた。僕は君のことを愛し続ける。君がもし生まれ変わっても、きっと君を見つけてみせる。僕の妻は君だけだって」
「純子さんのその話、いつ聞いても泣けます」
「そして私は戻って来た。再会した時、主人は泣いて喜んでくれた。私の全てを受け入れてくれた。
私は薬の影響で髪の毛もなくなってたし、体重もすっかり落ちてやつれていた。なのに主人は私を見た時、元気な頃の私を思い浮かべてくれたの。それがこの姿」
「素敵……」
「早希ちゃんだって同じでしょ?」
「そうですね……他の人の話を聞くと私、すごく恵まれてるんだなって思います」
「旦那さんに感謝、しなくちゃね」
「それで、ご主人とはその後」
「しばらく一緒に生活したわ。二年ぐらいかな、幸せだった……でもね、私は死者。主人にしか見えない存在。両親や周りは主人の将来を心配した。主人もまだ若かったから、再婚を勧めるようになったのは当然だったと思う。
でも主人は頑なに断り続けた。僕の妻は純子さんだけです、誰とも再婚するつもりはないですって。おかげで実家とも険悪な雰囲気になっちゃって……だから私、出て行ったの」
「……」
「主人の未来を奪ってはいけない。私は死者、彼を縛る権利はない、そう思ってね」
「……ご主人は何て」
「必死に引き留めてくれたわ。でも私の意思は変わらなかった。書き置きを残して出て行ったの」
「純子さん格好いい! 男前! 比翼荘の大黒柱!」
「何よそれ」
「あはっ」
「それで、それからは」
「半年ぐらいして、ようやく主人も諦めて、再婚を決意してくれた」
「……そうなんですね」
「新しい奥さんはいい人でね、幸せそうな姿を見てほっとしたの。それから私は一人、あちこちを旅して過ごしたの。自由で気ままな時間だった。
そしてある時、ふと思ったの。私みたいな人、他にもいるんじゃないか。私の様に、不安で寂しがってるんじゃないかって。そう思い出したら居ても立っても居られなくなって、自然とここに戻っていたの。住み慣れたこの場所で何かを始めたい、そう思ったから。
そして主人に見つかってしまって……主人には子供もいて、幸せそのものだった。なのに私を見て、嬉しそうに泣いてくれて……嬉しかった。
主人は言った。今の幸せは、全部純子さんのおかげです。だから恩返しをさせてほしい。不便なことはないですか、僕に出来ることはないですかって。
だから私は、自分の夢を伝えた。私の様な人たちが集える場所が欲しいって。主人はうなずいて、この家を私に与えてくれたの」
「……純子さんもご主人も、本当にすごい人なんですね」
「今は会うこともほとんどないわ。あの人も、孫に囲まれて幸せに暮らしているし」
「……」
純子の話は早希にとって、他人事とは思えなかった。
確かに今、私は幸せだ。
信也くんも、私が戻って喜んでくれた。
でもこれから先、それがずっと続いていくのだろうか。
信也くんはそれでいいんだろうか。
私にもいつか、純子さんのように決断する時が来るんだろうか。
「早希ちゃん」
「……はい」
「色々考えてるみたいだけど、考え過ぎちゃ駄目。これはあくまで私の話よ。幸せは人それぞれ、早希ちゃんは旦那さんとどう幸せになっていくか、考えていけばいいと思う。
それでももし、悩むことがあったら。いつでもここに来ていいから。ここには私も、先輩たちもいるから」
「妹もいてますです」
「純子さん、由香里ちゃん……ありがとうございます」
早希が照れくさそうに微笑んだ。
「そうだ早希ちゃん、時間は大丈夫?」
「大丈夫です。今日は信也くん、仕事で遅くなるって言ってましたから。でもそうだな、そろそろ帰って、晩御飯の用意しないと」
「あらあら。新婚さんしてるのね、うふふっ」
「はい。何と言っても私、新妻ですから」
「何が新妻だよ、くだらねえ」
玄関から、不機嫌そうな声が聞こえた。
「……え? え?」
「くだらねえ話、してんじゃねえぞ」
「あ、あの純子さん……今の声は」
「久しぶりに帰ってきたのね。彼女もここの住人よ。おかえり、沙月ちゃん」
「沙月って、さっき由香里ちゃんが言ってた」
「そうです。今日はいつも以上にご機嫌斜めですね」
「うっせーぞ由香里、黙ってろ。純子さん、新入りですか」
「ええそうよ。沙月ちゃんもこっちに来て、ご挨拶したら」
「ふんっ……」
部屋に入ってきた沙月の姿を見て、早希は思わず息を飲んだ。




