129 幼馴染
「秋葉。俺は今まで、お前にいっぱい迷惑かけてきた。守ってもらってた。だから……感謝してる。本当に感謝してる」
下校時。いつもこのベンチに座ってジュースを飲んだな。
とりとめのない話に華を咲かせ、そのまま日が暮れたこともあった。
特に何があったって訳じゃない。
でも間違いなく。
ここは俺と秋葉にとって、かけがえのない大切な場所だった。
その場所で今、俺は青春時代を締めくくろうとしている。
秋葉の為、俺自身の為。
そして……早希の為に。
そう思い、信也は拳を握った。
「お前のおかげで大学にもいけた。もし塚本がチクってたら、推薦はなしになってただろう。今の俺があるのは、秋葉のおかげなんだと思う」
「……代わりに私は、信也を10年も苦しめた」
「まあ……あ、いや、その話は済んだことだから、今ぶり返すのはやめよう。俺が言いたいのは……俺はお前のおかげで、少しだけ真っ当な人間になれたってことだ。
姉ちゃんにしばかれて、色々と聞いた。俺は感謝の心も持ってない、人の心を分かろうともしない馬鹿だと思った。でも、それでも……もし秋葉がいなかったら、俺は今よりもっと駄目な人間だったはずだ」
「……」
「そんなお前から告白されて……びっくりした。でも、俺をずっと想ってくれてたこと、嬉しかった」
「うん……」
「お前は恩人だ。最高の友達だ。だから俺の本当の気持ち、言おうと思う」
秋葉の口元に、笑みが浮かんだ。
「ごめん。俺はお前とは付き合えない」
そう言って信也が頭を下げた。
「信也……こっち向いて」
信也の頬に手をやり、秋葉が囁く。
その言葉に顔を上げる。秋葉はまだ微笑んでいた。
「分かってたよ。信也ならきっと、そう言うだろうなって」
「……」
「でもね、私もね……信也にちゃんと告白しないと、前に進めないって思ってた。私も信也も、あの時、あの場所でずっと立ち止まったままだから」
「そう……なのかもな……」
「でもね、信也。私は信也のことが好き……それは今でも変わらない、本当のことなの。例え信也の中に早希さんがいるとしても、私は信也と一緒になりたい、そう思ってた」
一筋の涙が流れる。
口元から笑みが消え、肩が震えた。
それでも唇をかみ、笑みを作ろうとする。
「……わた、私ね……信也と一緒になりたかったんだ……でも……でもね、信也と会うたびに、信也の中に早希さんが生き続けてるって感じて……でも……それでも……
私も早希さんが好き。信也の中から早希さんを消すなんてこと、考えたこともなかった……それでもね、信也……それでも私……私は……」
「もういい、もういいから……ごめん、いっぱい苦しませて」
「謝らないで! 謝られたら私、みじめになるから!」
「ごめん……ごめん……」
「謝らないでって……言ってるのに……」
そう言って信也の胸を叩き、顔を埋めた。
「信也のこと、ずっと好きだった……私の思い出の中には、いつも信也がいた……信也と一緒に生きていきたい、そう思った……私にとって、信也は何よりも大切な人。信也が笑えば楽しかった。信也が泣けば悲しくなった。信也が悩んでいると、私も辛かった……」
秋葉の言葉。そのひとつひとつが信也の心に響く。信也の目にも、涙が光っていた。
「だらしない所も好きだった。朝に弱い所も好きだった。屁理屈ばかり言って、世の中を斜めから見ている所も好きだった。
笑顔が好きだった。カイ君を抱き締めた時の顔が好きだった。知美ちゃんに殴られて、すねてる顔が好きだった……
私は信也の全てが好きだった。そんな信也に、ずっと私を見ていてほしかった」
信也が秋葉を抱き締める。
「俺も……秋葉のこと、大好きだった。親父が出て行った時、秋葉はいつも傍にいてくれた。励ましてくれた、慰めてくれた。
お前がいたから、俺は絶望しなかった。お前の優しさが、すさんでいた俺の心を癒してくれた。お前がいなかったら、俺、俺は……」
信也の涙が秋葉の頬を伝う。秋葉は微笑み、信也の頬にキスした。
「私の為に泣いてくれるんだね……ひどいことをいっぱいしたのに、泣いてくれるんだね」
「ひどいことなんて、何もしてねえって……ひどいのは俺だ」
「信也……ねえ信也。あなたはこれから、どう生きていくのかな。最後に聞かせてほしい」
「俺は……早希がいたから俺は、もう一度人生を頑張ってみようって思えた。あいつと出会うまで、俺はただ生きているだけだった。何に対しても興味を持たず、ただ毎日、時間が過ぎていくのを待っていた。俺は……多分俺は、早く死にたいって思ってた……
早く楽になりたい、このクソつまらない人生から逃げ出したい、そう思ってた。なのにあいつは……そんな俺のこと、ずっと見守ってくれた。
そんなあいつに惚れた。心の底から惚れた。だから……あいつが死んだ時、本当に死にたいって思ったんだ。なのに……なのあいつは、死んでからも俺のこと、ずっと見守ってくれてる。いつも俺の傍で、俺の幸せを祈ってくれてる」
「……」
「あいつは俺と秋葉が一緒になること、誰よりも願ってくれた。自分はこの世にいない存在、俺のことを幸せに出来るのは私じゃない、秋葉さんなんだ、そう言ってくれた」
秋葉がゆっくりと信也から離れ、涙を拭い微笑んだ。
「そんなあいつのこと、放っておけないんだ。あいつはいつも、自分のことより俺の幸せを考えてた。でもあいつは……本当は誰よりも寂しがりなんだ。
だから俺はこれからも、早希と生きていきたい。あいつがどう言うかは分からない。でもあいつが振り向いてくれるまで、諦めないつもりだ」
「早希さん……やっぱりまだ、信也の傍にいるんだね」
「ああ」
「そんな気がしてたんだ……あの日、早希さんの写真の前でね、私も早希さんの声、聞こえたような気がしたの。
早希さん、今でも信也のことが大好きなんだって思った。私のことも、すごく心配してくれた」
「そうか」
「だからあの時、信也は大丈夫だ、そう思った。信也は前に進もうとしてる、そう思った」
信也の眼鏡を外し、両手で優しく包み込む。
「私も……前に進むね」
そして小さく息を吐いた。
「さよなら、信也」
そう言って信也を抱き締め、唇を重ねた。
唇を重ねたまま、
「さよなら……私の青春……」
そう囁いた。
やがて静かに離れると、秋葉は濡れた瞳で信也を見つめ、愛おしそうに唇を撫でた。
眼鏡を信也にかけ、優しく微笑む。
「じゃあね、信也」
「ああ……」
「次、会う時は笑顔で」
「ああ、笑顔で」
信也に背を向け、秋葉がその場を後にする。
大切だった幼馴染。初恋の人が遠ざかっていく。
信也の中に、様々な感情があふれて来た。
信也はその全てを受け止め、秋葉の姿が見えなくなるまで、背中を見つめ続けた。
涙を拭うこともなかった。
「おかえり」
秋葉の家の前に、知美が立っていた。
「ただいま。やっぱりここで待ってたんだ」
「まあ……な」
「寒かったでしょ。中で待ってたらよかったのに」
「そうなんだけどな……色々引っ搔き回しちまったし、中でぬくぬく待ってるってのもな」
「ふふっ、知美ちゃんらしいね」
「話、しっかり出来たか」
「うん。ちゃんと青春、終わらせてきたよ」
「そっか」
「信也には早希さんがいる。最初から分かってた」
「なんか……すまなかったな」
「そんなことないよ。知美ちゃんのおかげで、私も信也も前に進もうって思えた。確かに今は辛いけど……でもね、自分でも不思議なぐらい、すっきりしてるの」
「姉としては、お前らが引っ付いてくれたら嬉しかったんだけどな。でもまあ、それもお前ら次第だって思ってた」
「知美ちゃんは、静かな水面に石を投げたんだもんね」
「投げたのは岩、だけどな」
「そうね。確かにそうだ。ふふっ」
「いい顔してるぜ、秋葉」
「ありがとう。知美ちゃんのおかげだよ。それと……早希さんのおかげ」
「早希っちか……確かにそうだな。信也には過ぎた嫁だ」
「知美ちゃんひどい、ふふっ」
「はははっ」
「中に入ろ。お父さんも待ってる」
「酒、ほどほどにしてくれよ。明日も私、仕事なんだから」
「大丈夫だよ。前みたいにいじめないから」
「そうして下さいほんと。それで戦利品は?」
「上々だよ。後で見せてあげるね」
「そうかいそうかい、それは楽しみだ」
「ただいまー。お父さん、知美ちゃん連れて来たよー」
「おじゃましまーす」
秋葉が去った後、信也はベンチで煙草を吸っていた。
時折吹く風は冷たかった。しかし今の信也には、その風すら自分を後押ししてくれている、そんな気持ちがしていた。
――早希。
俺が愛した女。
俺の嫁さん。
ずっと傍にいて欲しい、そう願った人。
早希の姿を思い浮かべると、心が穏やかになった。
あの、別れを告げられた日のことですら、愛おしく感じる。
早希。
今すぐ会いたい。
抱き締めてキスしたい。
早希の匂いに包まれたい。
早希が哀しみにくれた時には、寄り添ってその涙を拭ってやりたい。
早希が笑っていたなら、話を聞き、一緒に笑いたい。
早希と共に人生を歩みたい。
幽霊?
関係あるか、そんなもん。
誰からも認識されない?
だから何だ。俺には見えている。何も問題ない。
白い息を吐き、信也は涙を拭った。
秋葉が俺に教えてくれた。勇気をくれた。
だから俺も前に進む。
自分の信じる道を。
立ち上がり、駅へと向かう。
その目にもう、迷いはなかった。




