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122 苦しくて

 


 その頃早希は由香里と共に、銭湯の煙突の上で夕陽を見つめていた。

 時折大きなため息をつく早希に、由佳里が心配そうに声をかける。


「お姉ちゃん、大丈夫ですか?」


「うん……ごめんね、由香里ちゃんにまで心配かけて」


「いえいえ、私のことは気にしないでください。それよりお姉ちゃんです。最近ずっと、元気がないですから」


「分かっちゃう?」


「はいです。お姉ちゃん、演技下手すぎです」


「ひっどーい。私ってそんなにバレバレなの?」


「バレバレです。毎日変なテンションですし、お兄ちゃんと目が合うと急に話題を変えて私に振ってきますし。それにお兄ちゃんが寝た後、比翼荘に来る回数も増えてますし」


「……私ってば、役者の才能ないんだ」


「ええ? 落ち込む所、そこですか?」


「あはははっ、嘘嘘……由香里ちゃん、私ね、ちょっと疲れちゃったみたい」


「……」


「信也くんのことが大好きで、信也くんと一緒になれて……本当に幸せだった。信也くんが笑ってくれたら嬉しくて、信也くんが泣いたら慰めたくなって、信也くんが悩んだら一緒になって悩んで……信也くんと一緒なら、どんな時でも、どんなことがあっても幸せだった。

 こんなに幸せでいいのかな、ずっと思ってた。一生分の幸せを今、全部使ってるんじゃないかって不安にもなった。その不安が的中して、車にはねられちゃんたんだけど……

 でも、神様が私にプレゼントをくれた。信也くんの元に戻れた時、本当に嬉しかった。そして信也くんの喜ぶ顔を見て、戻って来てよかった、そう思った」


「そうですね……私には訪れなかった幸せですけど」


「あ……ごめんなさい、そういう意味じゃなかったんだけど……無神経だった」


「いえいえ、私もそういう意味で言ったんじゃないので、気にしないでください。もうその時の気持ちすら、よく思い出せないんですから。それで? お姉ちゃん、どうか続きを」


「うん……信也くんの所に戻って私、これからは今まで以上に、信也くんの為に生きるんだって決めたの。だって私は、その為に戻って来たんだから。

 私の全ては信也くんの為にある。信也くんを笑顔にして、寂しがってる時には寄り添って。泣いてる時には抱き締めてあげるんだって……そうして信也くんの傍で、ずっと見守ってあげるんだって思ったの」


「……お兄ちゃん、愛が重いって言ってませんでしたか」


「……由香里ちゃん、中々辛辣だね。確かに話だけ聞いてたら私、かなり危ない女なんだけど……でも結局、やってることはいつも通りだった。毎日一緒にご飯食べて、一緒にお風呂入って。一緒に寝て、一緒泣いて一緒に笑って。それだけだった。でも、本当に幸せだったんだ」


「……」


「だけど純子さんと出会って、純子さんが山川さんの元から離れていった話を聞いた時、ちょっと考えちゃったの。どこまでいっても私は、この世界ではいなくなった存在。私が見えるのは信也くんとあやめちゃんだけ。信也くん、このまま私と一緒にいて、本当に幸せなのかなって。

 そんな時、秋葉さんがやってきて……秋葉さん、信也くんのこと、ずっと好きだったの。秋葉さんの信也くんへの想いは、私より強いのかもしれない。

 秋葉さんは信也くんの為に、信也くんの元から離れることを選んだ。その決断、私には出来ないって思った。ずっと信也くんを裏切った悪者として生きてきて……私、その強さに憧れた。人を愛するって、こんなにもすごいことなんだって思った」


「……愛し方は人それぞれだと思います。秋葉さんがそうだったように、お姉ちゃんだってお兄ちゃんのこと、精一杯愛していたと思います。それにお兄ちゃんも、お姉ちゃんと一緒でいつも幸せそうです」


「……でもね、秋葉さんは一緒になる幸せより、信也くんを見守っていくことを選んだの。一切の弁解もせず、許しも乞わなかった。本当に秋葉さんの愛は、強くて気高いって思った。

 信也くんも秋葉さんのこと、ずっと好きだった。そんな二人の間に私が割り込んで、秋葉さんから信也くんを奪っちゃったの」


「それは……違うと思いますよ。そんなこと、お兄ちゃんが聞いたら怒ると思います。お兄ちゃんはお姉ちゃんのこと、秋葉さんと比べたりなんかしてません。秋葉さんの代わりを探していた訳でもないと思います」


「私は……信也くんの心の支えにはなれるかもしれない。でも、信也くんは生きている。この世界で生きていく為に、いろんなことをやっていかなくちゃいけない。そんな信也くんの為に、私が出来ることには限界がある。だって幽霊だから。でも秋葉さんなら……秋葉さんなら信也くんのことを理解して、心の支えになって、共に人生を歩んでいくことが出来る。私がいなければ二人は幸せになれる、そう思ったりもした」


「お姉ちゃん……」


「純子さんはその決断をした訳じゃない? 山川さんもその後再婚して、あんなにたくさんの家族に囲まれて、本当に幸せそうだった。奥さんのことも、心から愛していた。相手の事を愛しているのなら……ううん、愛してるからこそ、身を引くことも大事なんじゃないかなって思った」


「私には……お姉ちゃんの言ってること、半分ぐらいしか分かりません。だからこんな時、何て言ったらいいのか分からないです」


「どういうこと?」


「私の場合、彼に拒絶されたのが20年も前のことで、その辺りの感情がよく分からなくなってるんです。確かに私は彼のことが好きで、この世界に戻ってきました。だから彼に拒絶された時は、本当に辛かったです。ずっと泣いてました。でも……それから何年かして、彼が結婚して子供を授かった頃から、彼への気持ちは恋愛じゃなく、見守る対象に変わっていきました。だから沙月さんが彼氏さんのことを想ってて、寂しい思いをいっぱいして、その気持ちを相手にやっと伝えることが出来たって言うのも、よかったな、とは思いましたけど、正直よく分かりませんでした。

 沙月さんはこの姿になってまだ三年。お姉ちゃんは一年にもなってません。だからこそ、そんな風にたくさん悩めるんだと思います。ある意味羨ましいです」


「前に言ってたよね。感情がだんだん平坦になっていくって」


「はいです。特に恋愛に関しては、今となってはよく分からなくなってますです。あはっ」


「寂しくない?」


「そう思ったことはないと思います。それに今の私には、世界を旅するということと、比翼荘のみんなと楽しく過ごすという大きな夢がありますから」




「私も……そうですよ」




「どわっ! す、涼音さん、来てたんですか」


「ごめんなさい、驚かせちゃって」


「あははははっ、いつもながらそのステルスっぷりには脱帽です」


「ステルスって言うか私、透明人間ですから……と言うか早希さん、驚き方、信也さんそっくり」


「あ、あはははははっ……涼音さん、いつからここに?」


「最初から」


「声かけてくれたらよかったのに」


「うん……でもね、私も……早希さんに何て言ったらいいのか分からなくて……私も由香里ちゃんと同じ。この姿になってもう10年。だから……彼への気持ちがどうだったのか、よく分からなくなっています」


「……」


「かつて私の中にあった、彼への気持ちは『蝶々夫人』なんだと思ってます。でも……その気持ちも、歌うたびに分からなくなっていって」


「……彼女の元から去った夫のことを、まだ信じて待ってますって歌……」


「はい。でも、今の私にそんな感情はなくて……ただあの歌は、彼が褒めてくれた歌だったから……私、彼に頼まれて何度も何度も歌いました。多分、すごく幸せだった……だからその時の気持ちを思い出したくて、今も歌っているんだと思います」


「……二人から見れば、私は恵まれてるんですね」


「そんなこと……だって早希さんも今、いっぱい苦しんでます。私たちが忘れてしまった感情で」


「お姉ちゃん。私はどこまでいってもお姉ちゃんの味方です。勿論お兄ちゃんの味方でもありますけど、もしお二人が違う答えを出したなら、私はお姉ちゃんについていきます」


「由香里ちゃん」


「だからまず、お姉ちゃんがどうしたいのか。ちゃんと考えてほしいです。でないと私も、どう応援したらいいのか分からなくなってしまいますです」


「そう、だよね……私がどうしたいのか、ちゃんと考えないと」


「確かにお兄ちゃんも、純子さんから比翼荘を託されました。でもそれは、お姉ちゃんと一緒だからです。もしお姉ちゃんの中で、比翼荘のことがあるから決められないのなら、それは考えないでほしいです」


「……私もそう思います。比翼荘のことは、私たちみんなで考えていく問題。ましてや信也さんは生きてるんです。私たちの為に人生を犠牲にしてほしくない……そう思います」


「私は……信也くんのことが好き。大好き。だからこそ、信也くんの幸せを考えなくちゃいけないって思ってる。だから正直に言うとね、信也くんとお別れしようと思ってたの」


「お姉ちゃん……」


「二人で握手して、笑顔でお別れしようと思ってた。秋葉さんなら信也くんを幸せに出来る。だから安心してた。いつ、どう言おうか悩んでた。

 でもあの時、キスしてる二人を見て……信也くんの顔、ちゃんと見れなくなったの。秋葉さんのこと、引っぱたきたくなったの」


「早希さん……」


「だからちょっと、分からなくなっちゃって……ついこの前まで、あの家は本当に安らげる場所だった。信也くんが帰ってくるのが待ち遠しかった。一緒の布団に入って、信也くんの匂いに包まれるのが本当に幸せだった……なのに今、その全部が駄目なの」


「早希さん。時間を置けばそれだけ、後戻り出来なくなりますよ」


「分かってる、分かってるんだけど……ほんと、どうしたらいいんだろうね、私」


 そう言って膝に顔を埋め、肩を震わせた。





「やっと見つけた」


 声に顔を上げる。沙月だった。


「ったく、全員揃っていなくなるから、探すのに苦労しちまったじゃねえか。おい早希、シンが比翼荘に来てたぞ」


「信也くんが」


「話がしたいんだとさ。家に戻ったみたいだから、お前も早く行ってやれ」


「……」


「何だ何だ、情けねぇ面しやがって。おい早希、分かってると思うけどな、逃げるんじゃねぇぞ。シンが腹をくくって来たんだ。お前も覚悟決めて、しっかり話してこい」


「……私、まだ」


「まだじゃねえよ。向こうからきっかけを持ってきてくれたんだ、それに乗っからなくてどうする。ほら、さっさと行ってこい」


「お姉ちゃん、私もそう思います。お兄ちゃんの所、行ってあげてください」


「早希さん……頑張って」


「……分かった。じゃあ沙月さん、みんなのことお願いね。夜になったら、また比翼荘に行くから」


「ああ。しっかり話してこい、愛しの旦那様と」


「うん」




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