113 葛藤、そして
「おはよう、信也くん」
「……おはよう、早希」
「どう? よく眠れた?」
「うん……早希が傍にいてくれたからかな。いつもより眠れた気がする」
「ふふっ、添い寝したかいがあったね」
「……ててっ……殴られた所、やっぱ昨日より痛いな」
「こういうのって、次の日の方が痛いものなの?」
「俺も初めてなんだけど、何かで読んだ気がする」
「もう少し休んでる?」
「……もうちょっといいかな。頭もぼーっとしてるし」
「じゃあ私、お洗濯してるから。何かあったら呼んでね」
「ごめんな」
「またまた。怪我人はそんなこと気にしないの」
「ちなみになんだけど、今は何時でしょうか」
「まだ10時。だからもうちょっと、休んでていいよ」
「ああ……そうするよ」
早希の歌が聞こえる。
その優しい歌声が、騒がしい感情を穏やかにしてくれた。
おかげで少し、冷静に考えられそうだ。
信也が静かに目を閉じ、知美の言葉を思い返した。
心に突き刺さっていた大きな疑問が、昨日ようやく解けた。
秋葉のこれまでの行動は全て、自分の為のことだった。
知美が言うように、好きな男が出来たとか、自分に愛想をつかしたとか。そこまで考えたことはなかった。
自分をかばいながらの生活に疲れたのだろう、そう思っていた。
自分の喫煙が原因で脅されていたなど、思いもしなかった。
知美の話を聞いた時、余りに些細なことに思え、拍子抜けしたほどだった。
しかしその些細な出来事が、10年にも渡り、秋葉を深い闇に堕とすことになったのだ。
それなのに自分は、時間が経てば溝も埋まっていくだろう、その程度に思っていた。
秋葉のおかげで大学にもいけた。
それなのに自分は、知らなかったとは言え、秋葉と違う大学に通うことになってほっとしていた。
なんという恩知らずなのだろうか。
そして再会してからも、秋葉を受け入れてやろう、そんなおこがましい、汚れた考えが心のどこかにあった。
最低じゃないか。
知美の言うように何も信じず、感謝もしてこなかった。
自分一人の力で生きて来た、そう思っていた。
その傲慢さに吐き気がした。
自分ほど汚れた人間はいない、そう思った。
「信也くん、起きてるかな」
「ああ。横になってるだけだよ」
「どうする? 朝ご飯、食べれそう?」
「そうだな……久しぶりに早希のご飯、食べたいかな」
「えへへへ、そう言ってくれると張り切っちゃうよ」
「あ、いやその……口の中も切れてるんで、お手柔らかに」
「ふふっ、分かってるって」
これからどんな顔をして、秋葉に会えばいいんだろう。
秋葉は自分の為に、ずっと苦しんで来た。
このままでいい筈がない。
これ以上秋葉に甘える訳にはいかない。
過去と向き合い、秋葉からの裁きを受けるべきだ。
それだけのことをしたのだから。
そして……早希。
自分の為、この世界にとどまることを選んだ愛する女性。
誰にも認識されない孤独な存在。
いつも笑顔で、自分を見守り続けてくれる愛しい妻。
彼女は今、本当に幸せなのだろうか。
彼女は言った。
自分と共に暮らすのは、望みであり義務だと思ってると。
あの時聞き流しそうになったが、その義務と言った時の彼女の目は、嘘を言ってるように思えなかった。
自分は早希を縛っているのだろうか。
早希には幸せになってもらいたい。心からそう願っている。
歪んだ自分を、傍でずっと見守ってくれた早希。
早希のおかげで少しはましになった、知美はそう言った。
それが本当なら、どうやって恩を返せばいいのだろうか。
早希の本当の幸せとは、一体何なのだろうか。
「ご馳走様」
「どう? 足りた?」
「ああ、満足したよ」
「よかった」
笑顔の早希を見ていると、本当に心が安らいだ。
「早希、ちょっとこっち」
「何?」
そう言って近付いてきた早希にキスをした。
「おかえり、早希」
突然の不意打ちは、早希を動揺させるに十分だった。
早希は恥ずかしそうにうつむき、信也の胸に顔をうずめた。
「どうした?」
「その不意打ちは……ずるい」
「ははっ。奥様、ちょっと可愛い」
「……馬鹿」
そう言って顔を上げると、今度は自分から信也の唇を求めた。
頭に手を回し、激しく舌を絡ませる。
旅行で離れていた二週間をうめるように、信也の唇を求めた。
信也もそれに答え、早希を抱き締める。
このまま時間が止まってほしい。
二人の中に、同じ思いがこみ上げていた。
「信也さん! 早希さん!」
涼音の声に、二人が慌てて体を離す。
「あ……ご、ごめんなさい、お邪魔しちゃって……」
「ど、どうしたのかな、こんな時間に」
「こ、こんにちは、涼音さん」
「……すいませんでした、あのその……いきなり入って来ちゃって」
「お、お構いなくですよ涼音さん。何たって私たち、いつもこんな感じでラブラブですから。あはっ、あははははっ」
「早希、動揺しすぎ……それでどうしました、そんなに慌てて」
「あ、そうでした……あのその、純子さんが」
「どうかしましたか」
「倒れちゃって」
「ええっ? どうして」
「それでその……すぐ来てほしいって」
「……分かりました」
「大丈夫? まだちょっと、ふらふらしてるみたいだけど」
「そんなこと言ってる場合じゃないだろ。幽霊が倒れるなんて普通じゃない。早希もほら、行くぞ」
「分かった。じゃあ涼音さん、私は信也くんと一緒に向かうから」
「お願いします。私は先に戻ってますので」
比翼荘に着くと、純子は和室で横になっていた。
隣には沙月と由香里が、心配そうに様子を伺っている。
「純子さんの具合は?」
「シン……」
涙を浮かべ、沙月が信也にしがみついてきた。
「なんで……なんでこんな……」
肩を震わせる沙月の頭を、信也が優しく撫でる。
「何があったのか、聞かせてもらえますか」
「ついさっきなんですけど、台所でお皿の割れる音がしたんです。それで見に行ったら、純子さんが倒れてて」
「そうなんだ……それで由香里ちゃん、純子さんの意識は」
「沙月さんにここまで運んでもらったんですけど、朦朧としてて……今すぐお兄ちゃんとお姉ちゃんを呼んでほしい、そう言ったきり……」
「純子さん、ねえ純子さん……どうしちゃったんですか」
「早希、落ち着いて」
「でも……」
「慌てても仕方ない。とにかく純子さんが目覚めるの、待つしかないよ」
「純子さん、病気なの?」
「私たち幽霊は……病気にならないと思います……」
「そう……だよね」
「お兄ちゃんお姉ちゃん、私たちどうしたら」
「頼むよシン、何とかしてくれ……純子さんに何かあったら、私……」
「気持ちは俺も同じだよ。でも少し落ち着こう。純子さんが俺たちを呼んだことに、何か意味があると思うんだ」
「シン……」
「信也くん……」
時間がゆっくりと流れていた。
皆疲れ切った顔で、純子が目覚めるのを待ち続けた。
気が付けば日も沈み、辺りは暗くなっていた。
信也は庭の手入れをしていた。
今、自分に出来る事は何もない。どうするべきなのかも分からない。
考えてみれば昨日から、処理しきれないほどの事柄が頭の中に押し込められ、どうにかなりそうだった。
そしてそんな時に浮かんだのが、昨日早希が言った、「木ではなく森を見ろ」と言う言葉だった。
信也は土に触れることで、頭の中を整理しようとした。
20時をまわった頃、由香里の声が聞こえた。
「お兄ちゃん、目が覚めたみたいです」
「……分かった」
土を払い、純子の元に向かう。
「……」
「純子さん、おはようございます」
「……あらあら、信也さん……男の人に寝顔を見られるなんて、何年ぶりかしら。うふふふっ」
「純子さん……」
「早希ちゃんも来てくれたのね。ありがとう」
「純子さんっ!」
「あらあら、うふふっ……沙月ちゃん、そんな顔しないの。大丈夫だから」
「純子さん……」
「じゃあみんな揃ったようだし、お話ししようかしら」
「話って」
「信也さん、それからみんな……」
純子が目を閉じ、静かに言った。
「私はもうすぐ、ここからいなくなるの」




