106 静かな決意
「食った食った」
久しぶりの秋葉の料理。懐かしい味だった。
「お腹、いっぱいになったかな」
「ああ、満足だ」
「よかった……あ、でも信也、もうちょっとゆっくり食べないと駄目だよ。消化が追い付かないから」
「はいお母さん、以後気を付けます」
「それにもっと、ちゃんと噛まないと」
「全くもってその通りでございます」
「ふふっ。なんだかこのやり取り、昔みたいだね」
「こんなもんじゃなかっただろ、秋葉の小言」
「小言って、酷いなぁ信也」
「はははっ。でもちょっと、変わった感じもするよ」
「どういうこと?」
「昔の秋葉の小言って、何て言ったらいいのかな、知識として知ってることを言ってたって感じ。同じ言葉なんだけど、例えばゆっくり食べなさい、とかも、今の方が心に響くんだ」
「それ、多分仕事のせいだと思う」
「なるほど。老人ホームだもんな」
「入居者さんが食べてる時も、何か変わったことがないかいつも見てる。食事中に喉に詰まらせて亡くなった人もいるから」
「年を取ると、冗談じゃ済まないんだな」
「私たちが当たり前にしてること、それが少しずつ出来なくなっていくの。だからよく言われるんだ。秋葉ちゃんはいいねって。
例えば歯がある。私にとっては当たり前のことなんだけど、義歯の人からすれば、本当に羨ましいみたいなの。もう一度、自分の歯で食べてみたいってよく言われるよ」
「失って初めて分かる、ってやつか」
「そうだと思う。だから私たちは、当たり前のことに感謝しなくちゃいけないって思うの」
「俺もぎっくり腰になったことがあるんだけど、あの時は寝返りもうてなかったし、トイレに行くにも立てなくて、這いながら行ったよ。便器が目の前にあるのに立つことが出来なくて、結局風呂場で這ったまました。あの時は思ったな、健康ってありがたいって」
「そう思えただけでも、いい経験だったと思うよ」
「今は大丈夫でも、年を取れば壊れていく訳だしな」
「でも、努力で防げることもあるから。煙草だってそうなんだからね」
「気付けない幸せ、か……早希が死んだ時も、そう思ったな」
「……」
「あいつがいなくなって、この家が気持ち悪いぐらい広く感じた。リビングも風呂も、寝室も。
そして思った。今まで普通に思ってたこと、それが全部幸せだったんだって。今あいつがここにいたら、『ありがとう』って言えるのにな、そう思った」
「なんで人って……後からじゃないと気付けないのかな」
「そうだな」
「でも……時間がかかったけど」
「……秋葉?」
「私はもう、信也を失いたくない」
秋葉はそう言って、力尽きたようにうなだれた。
「おいおい、大丈夫か」
「あ、うん……今の言葉、ちょっと勇気がいったから」
「なんだよそれ」
「私は……私のせいで一度、大事な友達を失った。でも今、こうして昔みたいに話している。すごく長かった……だから今、とても幸せなの」
「秋葉……」
「ごめん、変なこと言っちゃった。忘れて」
そう言って慌てて立ち上がり、秋葉は食器を片付けだした。
「手伝うよ。てか、洗い物は俺にまかせろ」
「でも」
「俺がするから座っててくれ。すぐお茶、用意するから」
信也の言葉にうなずき、秋葉が微笑む。
「やっぱり……そういうところ、変わってないね」
「楽しかったな……」
枕を抱き締め、秋葉が幸せそうに笑った。
「……信也といると私、こんなに幸せな気持ちになれるんだ」
先週、早希が事故にあった場所に花を供えた時。
秋葉は早希に語り掛けていた。
「早希さん……私ね、すごく時間がかかったけど、やっと信也と普通に話せるようになったんだ……これってきっと、早希さんのおかげだよね……
早希さんがいてくれたから、信也と再会することが出来た。早希さんは私の気持ちに気付いてくれて、何度も何度も私に謝ってくれて……おかげで私は、信也と新しい関係になることが出来たの。
これからは早希さんと信也、二人の幸せを眺めて、たまに冷やかしたりしながら、友達として仲良くしていこう、そう思ってたんだよ。
なのに、早希さんがいなくなって……また信也から笑顔が消えてしまう、そう思ってた……
でも早希さんはすごいね。信也、笑顔だった。元気だった。それってきっと、早希さんが信也を見守ってるから。そう思ってね、ほっとしたの。
だけど……早希さん、今日は早希さんに、聞いてもらいたいこと、あったんだ……私、信也の傍にいてあげたい……信也を支えてあげたい、そう思って……
ううん、違う。もう嘘つくの、やめるね。
信也の傍にいたいのは私。
私は信也のことが……好き。信也の隣で、信也の笑顔をずっと見ていたい。
だから……許してもらえないかな。私が信也に、気持ちを伝えることを。
私の気持ち、信也は受け入れないと思う。でも、それでもいいの。私はただ、あの時なかったことにしたこの気持ちを、信也に伝えたいの。
ねえ早希さん……許してくれない……かな……」
着信音に携帯を取ると、知美からのメッセージだった。
『元気してるかー』
『うん。今日、信也の家にご飯作りに行ったの』
『おお! やるな秋葉。それでどうだった?』
『楽しかった。信也も喜んでくれたよ』
『そうかそうか。仲がいいのは、姉にとっても朗報だ』
『それで……知美ちゃん、相談なんだけど、いい?』
『どんとこい』
『私、信也に告白しようって思ってる』
『マジか』
『うん、マジ』
『秋葉がついに……ううっ、お姉ちゃん嬉しくて涙が出て来た』
『いいと思う?』
『秋葉の気持ちが全てだよ。何度も言ってるけど、恋愛は本人たちの気持ちと行動だ。私が出来るのは、ちょっとした手助けだけ』
『私、自分から動いたことなんてなかったもんね』
『だから嬉しいんだよ。秋葉がそうやって、自分の気持ちに向き合えたのが』
『私、頑張ってみる』
『おおっ、頑張れ。それで、あのことは?』
『言わないよ。だってあれは、私が決めたことだから』
『そっか、分かった。応援してるよ』
『うん。ありがとう』
『にゃははははっ』
小さく息を吐き、ベッドに寝転ぶ。
「失った時間は取り戻せない。でも、これからのことは……変わるかもしれないんだよね」
そう言って、迷いの消えた瞳で天井を見つめた。




