102 哀哭
3月8日。
私は初めて信也の家に来ていた。
あの日から初めて、信也と早希さんに会う。
少し怖かった。
お祝いを渡してすぐに帰ろう、そう思っていた。
いくら心の整理がついたと言っても、まだ二人を直視出来るとは思えなかった。
扉が開き、信也の顔を見て。胸が締め付けられた。
やっぱり私、まだ信也のことが好きなんだ。そう改めて気付かされた。
早希さんが、マミラリアを見て泣いてくれた。
信也が好きになったのが、この人でよかった。そう思った。
私は自然に、早希さんを抱き締めていた。
そして心の中で、信也のことをお願いします、そう言った。
そこまではよかったんだけど……
早希さんの勢いに負けて中に入った私は、目の前の女の子から目が離せなくなった。
信也と早希さんの家に、見知らぬ女の子がいる。
頭が真っ白になった。
信也が何か説明していたけど、聞こえなかった。
私の目に、ハリセンが映った。
こんな所にハリセン? 自然にそれをつかんでいた。
私は信也を、ハリセンで何度も何度も叩いた。
気が付けばその子、あやめさんも信也を叩いていた。
やっぱりこの子、信也のことを狙ってる。そう思ったら、叩く手に力が入った。
叩いている内に、なぜだか分からないけど、心が軽くなっていくのを感じた。
あれ? なんだろう、この感じ。
ちょっと楽しいかも。
私はいつの間にか、笑顔になっていた。
私の初恋は今、やっと終わったんだ。そう思った。
帰り道。
早希さんが駅まで送ってくれた。
早希さんは、私にすごく気を使っていた。
泣きながら、私を抱き締めてくれた。
信也くんを奪ってごめんなさい、そう言って泣いてくれた。
早希さん、本当に真っ直ぐな人だな。
この人は私と違う。常に自分を見つめ、誠実に生きようとしている。
こんな人だから、信也は好きになったんだろう。
こんな人だから信也は、もう一度人を信じてみよう、そう思ったのだろう。
この人でよかった。心からそう思った。
信也、早希さん。おめでとう。
どうかいつまでも、お幸せに。
4月13日。
この日は遅番だった。
19時。申し送りを済ませた私は、ロッカー室に着替えに行った。
ロッカーを開けて携帯を確認すると、メッセージが入っていた。
知美ちゃんからだった。
「どうかしたのかな。会うのはあさってだったよね」
メッセージを開くと、「すぐに連絡してくれ」そう書かれていた。
そのメッセージに、なぜか心がざわついた。
理由も書いてない。いつもの知美ちゃんと違う。
そう思った私は慌てて着替え、駅に向かって走った。
駅のベンチに座り、電話をかけた。
呼び出し音が続く。
その時間が、とても長く感じた。
何度目かのコールで、やっと知美ちゃんが出た。
私は不安を消し去りたくて、無理に明るい声で言った。
「知美ちゃん? ごめんね、今日遅番だったの。今日も大変だったんだ、利用者さんがね」
「……秋葉」
知美ちゃんの声は、私の不安が間違っていないことを告げていた。
「ど、どうしたのかな、元気ないみたいだけど……あさってのことかな。だったら大丈夫、ちゃんと予定空けてるから」
「今、駅なのか」
「え……う、うん、そうだけど……」
「じゃあ悪いけど、今すぐ来てくれないか」
「周り、何だか騒がしいね……どこにいるの?」
「秋葉、落ち着いて聞くんだぞ」
「……」
「――早希っちが死んだ」
その時、特急が通過した。
ほんの数秒のことなのに、長く長く感じた。
「……ごめん知美ちゃん、電車の音で聞こえなかった……」
嘘だった。知美ちゃんの言葉、はっきりと聞こえていた。
もう、涙が溢れていた。
震えが止まらなかった。
「早希っちが死んだ。さっき、家に戻って来たところだ」
聞き直しても。知美ちゃんの言葉は変わらなかった。
初恋が終わった、あの日の感覚が蘇る。
血が逆流し、口の中が乾き、息が出来なくなる感じ。
でも、あの時の比じゃなかった。
声を絞り出し、もう一度知美ちゃんに聞いた。
「……ご、ごめんなさい……電話が遠くて、よく聞こえない……」
「早希っちが死んだんだ。今日、車にはねられて」
何度聞いても、知美ちゃんの言葉を変えることは出来なかった。
涙が流れていた。でもなぜか、笑っていた。
笑いながら、
「何……何言ってるの、知美ちゃん」
何度も何度も、そう言いながら泣いた。
「秋葉、秋葉! しっかりしろ! おい、秋葉!」
「あはっ……あはははっ……そんな……そんなこと……」
インターホンを鳴らすのが怖かった。
今すぐ帰りたい、そう思った。
その時、扉が開いた。
知美ちゃんだった。
「秋葉……遅い時間にありがとな」
知美ちゃんは優しく微笑んで、そう言ってくれた。
目は真っ赤になっていた。心なしか、やつれて見える。
「知美ちゃん……」
「さ、早く入んな。早希っちが待ってるから」
玄関にはたくさんの靴が並べられていた。
隅っこに靴を揃えて、私は知美ちゃんの後に続いた。
扉を開けると、大勢の人たちが座っていた。
テーブルに置かれた料理を囲んで、みんなお酒を飲んでいる。
煙草の煙が部屋中にこもっていて、少し視界が悪かった。
私に気付いて、みんなが振り向いた。
みんな、哀しそうな顔をしていた。
疲れ切った顔をしていた。辛そうな顔をしていた。
「秋葉」
信也の声がした。
いつもと変わらない、優しい声。
そうだ、やっぱりそうなんだ。これは知美ちゃんの悪戯、早希さんが死んじゃう訳がないじゃない。
白い棺桶が目に入った。
棺の傍には、早希さんの遺影が祀られている。
緊張の糸が、そこでぷつりと切れた。
膝が震え、その場に座り込んでしまった。
「秋葉。来てくれてありがとな」
信也が私の肩に手を置く。
見上げると、優しく微笑んでいた。
「信也……ごめん、ごめんね……」
「何だよそれ、訳分かんねえぞ。秋葉、早希に会ってやってくれるか」
信也の言葉にうなずき、立とうとしたが立てなかった。
足が言うことを聞いてくれない。
そんな私を、信也が優しく抱きかかえてくれた。
でも……その手は震えていた。
「……」
棺で眠る早希さんは、本当に綺麗だった。
ウェディングドレスに身を包んだ早希さん。その姿は天使のようだった。
口元には笑みもこぼれている。
「早希……さん……」
どうして? どうしてそんな所にいるの?
駄目じゃない、そんな所で寝てちゃ。
私に約束してくれたよね。信也のこと、幸せにしますって。
約束してくれたよね。友達になってくれるって。
ねえ早希さん、起きて。
起きてよ早希さん。
「……うわああああああああっ!」
私は泣いた。声をあげて泣いた。
知美ちゃんが、おばさんが。あやめさんもお姉さんも、一緒になって泣いてくれた。
信也は私の肩を抱いて、何度も何度も「ありがとな」そう言ってくれた。
なんで? どうして?
どうしてあなたは、こんな時まで優しいの?
どうして一緒に泣かないの?
どうしてこんなことになってしまったの?
神様、これは罰なんですか?
私があの日、信也を見捨てたから。
最後まで信也に寄り添わなかったから。
その報いなんですか?
私の罪は、そんなにも重いのですか?
高校3年、9月のある日。
私は一人、放課後の校庭を歩いていた。
いつもなら、信也が出て来るのを待っていた。
でも今日は……いいえ。もう二度と、待つことはない。
「秋葉、一緒に帰るか」
信也の声が聞こえた。
ああ、いつもの信也の声だ。
優しくてあたたかい、私の大好きな声だ。
いつものように振り返り、うなずいて笑いたかった。
他愛もない言葉を紡ぎたかった。
でも、もうそれは出来ない。
決めたことだから。私自身が、決めたことだから。
あの日の信也の顔を、忘れることは出来ない。
私を見た時の、絶望に満ちた顔を。
でも信也、微笑んでくれた。
そして小さくうなずいてくれた。
信也は受け入れてくれた。
「いない者」にした私を。
私はそのまま前を向いた。
そうしないと無理だった。もう、瞼が濡れていた。
私はもう、振り返らなかった。




