第7話 刀
背中を伝って痛みが体内に侵食する。『』。頭の片隅にミーグルの声を聴いた気がした。次の瞬間から、突然世界に帳が下ろされたかのような静寂が訪れた。
「……」? なんだ……?
俺は独りごちる。しかしぱくぱくと口が動くばかりで、放ったはずの自分の声が聞こえない。
俺はあたりを見渡す。アマルが何か叫んでいるようだが、無声映画のように唇が動いているばかりだ。周囲の風のざわめきも獣たちの息遣いも耳に入らない。
側面に衝撃を感じる。いつの間にか獏鸚の羽が俺を横薙ぎにしていた。弾き飛ばされながら俺はとっさにアマルの腕を掴む。空間転移で少年ごと移動し、獏鸚の掌から彼を解放する。双子から離れた位置に着地し、俺は地面を転がる。耳元で弾ける砂利の音すら聞こえない。聴覚予知も封じられた。俺は歯噛みして起き上がる。
ましらさん! 平気ですか……!
俺の肩を掴んでアマルが言う。俺は驚いて彼の顔を見上げる。自分も喋ってみるがやはり声は聴こえない。
「……」君の声だけ聞こえるぞ……。
脳内に直接話話しかけてるんです。触れている間しか使えませんからこのまま……。
「……」便利な能力だな。
俺は唇を動かして答える。なるほど、さっき鞭を受けた時に聴いたミーグルの声も同じ原理か。命令を声に出して聞かせる過程を省略する技術でもあるわけだ。
アマルが肯いて耳を指す。
今受けた攻撃は、カプリチオの五感を奪う催眠です。実際に鼓膜や聴覚器官が損なわれたわけではないので、催眠を解けば元に戻ります。ただ、戦闘中とあっては……。
脳内で少年が口ごもる。俺は肯き返す。「……。……」分かった。まずは敵を倒さなければ、ということだな。
俺は双子の方を見る。片翼の折れた大鴉にユードラが鞭をくれた所だった。八咫烏が苦し気に呻く仕草を見せ、それから従順な様子でユードラに頭を垂れた。
主従を上書きされました。既に調伏されているあのレベルの禽獣を一撃で……。俺以上の調教師ですね、ユードラのやつ。
「……」彼女もミーグルの催眠は使えるのか?
恐らく無理でしょうね。五感を奪う催眠は高度な技術を要します。あの歳で調伏催眠の習得と両立させるのはほとんど不可能でしょう。基本的な催眠を併用してくる可能性はありますが……。
アマルが目を細めて双子の方を見る。
……戦う相手を交代しませんか? 五感の残機は俺の方がある。それにあの怪物二匹相手と使い魔無しで渡り合うのは、正直厳しい。ましらさんの膂力と空間移動なら……。
「……。……。……? ……。」そうするか。俺も獣たち相手なら遠慮なく拳を振るえる。だが鞭撃を捌ききれるか? 宝珠を使ってもいいぞ。
棒術はあいにく……。自己催眠で身体能力を底上げし、対処します。それに八咫烏の羽根もある。これをナイフ代わりに使います。
アマルが逆手に握った二枚の羽根を見せた。
素早く作戦を練り交わし、俺たちは戦闘態勢に入る。敵も動き出してきた。八咫烏が羽根を散弾のように飛ばした。宝珠の回転でガード。八咫烏の頭上に転移し、鋼鉄の棒を振り下ろす。怯んだ烏の頭から獏鸚の背に飛び移ろうとした矢先、俺はユードラの姿が消えていることに気付いた。
一旦着地する。他力型の能力者は、本人を叩くのがセオリーなんだが……、どこに隠れた?
素早く辺りに視線を飛ばす。ミーグルの鞭が飛んでくる。転移で回避し獏鸚の背面に回り込む。アマルが走り込んできて鞭を躱し、間合いの内側に入る。良い反応だ。あれならしばらく耐えられるだろう。手早くこちらを片付け、加勢に戻る……!
獏鸚の蹄を躱し宝珠を膝裏に叩き込む。あまり堪えた様子が無い。背後から襲い来る烏の嘴を如意棒を盾に凌ぎ、獏鸚の頬を張る。怒ったように山羊の角を突き立て、突進を繰り出してくる。転移で避けて翼を弾く……。
攻撃は入るがダメージが溜まらない。この怪物、複数の野獣が混ざっている分頑丈さも桁違いだ。
獏鸚の振り回した長鼻と衝突する。地面に吹き飛ばされ、獏鸚が出現した時の穴に転げ落ちる。
暗がりの中でむくりと身を起こす。見覚えのある構造の空洞だ。どうやら長距離運搬用生物『蛇足』の地下路線らしい。しかし……、やはり聴覚を欠いて戦うのは分が悪いか。それに予知も使えない。少し先の未来を集中して覗く分には、視覚予知も使えないことはないが、戦闘中に即座に行うような数秒先の予知は、まだ聴覚限定だ。
足元に微かな振動が伝わってくる。『蛇足』……まだ運行中か。この地響きからしてそう遠くない。この深夜帯ならまず貨物列車だ。……クロウの奇策に倣うか。
俺は地上に姿を現す。獏鸚が臭いを嗅ぎつけ、素早くこちらに反応する。怪物が攻撃態勢に移る前に、俺は素早くその巨体に飛びついた。
ぱっと景色が暗転する。再びの地下通路だ。目の前にらんらんと輝く蟒蛇の瞳が映る。
激しい衝撃が獏鸚の巨躯を襲う。『蛇足』の通行速度は地下鉄並だ。獏鸚を盾にしてもなお、その背から伝う震動で俺を弾き飛ばすほどだった。夷の乱の戦闘記録には目を通している。走りくる『蛇足』を利用するクロウの戦法を真似させてもらった。
弾き出されたのは俺だけではなかった。衝撃に開いた獏鸚の口から、金色の塊が飛び出してくる。衝突。生暖かい体液に包まれたユードラが素早く体を立て直した。
そうか、獏鸚の口の中に……!
気付いたが流石に不意を突かれた。ユードラの右手が動く。鞭の一撃が防御した俺の腕に響く。電気を打たれたような痺れが全身に広がる。抜かった。麻痺系の催眠か……!
「……!」
ユードラが勝ち誇った表情で無音の叫びを上げる。鞭を振り掲げ、追撃の一打を狙う……。
とん、と肩に振動があった。焼けるような鋭い痛みが走る。痛みで催眠が一時に解けた。
鞭はまだ到達していなかった。俺は瞬時にユードラの背後へ転移し、如意宝珠を振り抜く。
ごめんな、手荒いやり方になっちまって。
後頭部を打ちぬかれたユードラの体が崩れる。俺は屈みこんで頭に触れる。……出血は無い。気絶しているだけだ。
それから俺は彼女を抱きかかえ、即座に地上へ転移した。
アマルはまだ粘っていた。鴉の羽根で鞭を弾きながら、出現した俺と気を失ったユードラを視界に入れる。
アマルが肯く。即座に羽根を投げ打ち、ミーグルの笞を素手で受け止めた。ミーグルの腕が固まる。俺は彼女の背面に飛び、再び宝珠を側頭部に放った。
気絶した双子を鞭で縛りあげ、俺はアマルのもとに駆け寄った。大人しい素振で鴉が傍へすり寄る。ユードラが気絶したことで主従の催眠が切れたらしい。獏鸚の方はまだ地下で伸びている。
……やりましたね、ましらさん。
俺が彼を抱き起すと、テレパシーでアマルが伝えた。目の焦点が定まっていない。気配で居所を探るようにこちらに顔を向ける。
「……」アマル……、お前、目が……。
ミーグルの最後の一撃に持っていかれました。問題ありません。催眠を解除すれば戻ります。
しばらく安静にした後、アマルは回復した視力でこちらを見た。
「ましらさん……、すみませんでした。結局俺が足手纏いになってしまった。ましらさん一人なら、手傷を負うこともなかったでしょうに……」
俺の催眠を解き、アマルが肉声で詫びる。俺は水泳の後のようにとんとんと耳を叩きながら、聞こえの調子を確かめて答えた。
「いや、あの二人の連携は手強かった。それに最後の一撃、お前の覚悟を見させてもらったよ」
俺はぽんとアマルの肩を叩いた。「君は勇気のある若者だ。……アテネを頼んだよ」
アマルの顔がぱっと明るむ。
「……ま、最終的に受け入れるかはアテネの意志次第だがね……」
俺は微妙に往生際悪く濁しながら手を離した。まあ、アテネの気持ちはともかく、彼なら立派に彼女を守り抜いてくれるだろう。それに気持ちも真剣だ。彼女もその熱意にいつか、振り向いてくれるかもしれない。兄貴分としては少し寂しい気持ちだが……、その時は暖かく、祝福してやろう。
「ところで……」アマルが俺の肩を指さして言った。「その刀は……?」
俺は今更ながら肩口を見る。脇差しが突き刺さっていた。ユードラの麻痺を解いた痛みの正体だ。アマルが尋ねるということは、少なくとも彼のものではないのだろう。俺は唸りながら刀を引き抜く。朱く染まった短い刀身が現れた。よく手入れされた小刀だ。強化人間の俺の肌に突き刺さるほどとは。
筋肉を引き絞り、出血を抑える。アマルが不安気に傷口を眺めるので、俺は安心させる。「心配ない。安全な部位だ。投げたのは急所を正確に外す技量のある奴……、見当はついてる」
それから俺は地面に仲良く転がる双子を見た。
「聞きたいことは色々あるが……、また後日だな。後は警察隊に任せよう。ちょっくらメルトグラハを叩き起こして来る。あの化け物を放り込む檻も探さにゃならんしな」
「獏鸚……、と呼ばれてましたか。とても自然界の生き物とは思えない。ユードラのやつ、どこでこんな怪物を拾ったのか……」
アマルが地下を覗き込んで言う。怪物は蟒蛇の横で、継ぎはぎだらけの人工的な肉体を横たえて眠っていた。俺は溜息をついて答えた。
「心当たりはある……。こっちの方もな」
〇
御所の内奥にある入り組んだ廊下の奥には、開かずの間と呼ばれている秘密の部屋が点在している。存在そのものが秘匿されており、貴族の中でも限られた人間にしか知られていない。そこに入ることができるのは、帝や皇族の許可を得た特定の人間だけである。
俺は薄明かりの廊下を真っ直ぐに歩いた。御所内の重要な場所には結界が貼られており、量子器官を持つ俺でも自由に転移してくることができない。人気のない回廊をぐるぐると巡って、ようやく目的の戸口に辿り着いた。
美しい浅葱色の襖を開くと、その奥には無骨な岩肌の続く地下洞穴が広がっている。階段を下り、虹色の光の渦巻く断層の前に立った。
帝の血印の押された羊皮紙をかざし、断層に突き進む。ずぶずぶと分厚い空気の膜を抜けるような感覚があって、俺は真っ暗な通路に躍り出た。
黒々とした煉瓦が手狭な入口を形作り、その先に20畳ほどの空間が広がっている。奥に気配を感じる。窓もない部屋なのにあちこちに月明りの溜まりのようなものができていて、まだらに部屋を染めている。俺は奥の空間へと足を運ぶ。
「……あら、久しぶりの来客と思ったら」
闇の奥から鎖の音を鳴らして、人影が近づいてくる。天井から差し込む淡い月光に照らされて、その両眼が鮮やかな緑に煌いた。
「やっと来てくれましたね、ましら君」