第5話 あり余るほどの涙(ティア)
アテネ……、帰ってこないな。
アマルティアはあてがわれた客室のベッドに横たわり、金縁の懐中時計を開きながら考えた。装飾の付いたカーテンの隙間から覗く、窓の外の闇は深い。夕方から給仕の仕事をしていたユードラとミーグルの姉妹も寝所に引っ込んでしまったし、両親と執事はサテュロス氏と談笑していて、話し相手も居ない。
当主が没したばかりだ。ここ2日ほどは故人を偲びつつしめやかに、という感じの大人しい会食である。表向きの説明は色々とあるだろうが、社交の場を設けることで政略を張り巡らせる機会ができる、というあたりの理由で根付いているのだろう。一か月後の牧羊神の会に向けて、最も根回しの進む日がこの数日なのだ。有力な貴族の家主は遠方からでも参加する。当主の座を狙う家もあるし、そこまでの勢力でなくとも、次の当主家と見込んだ家とのコネクションを強めることができる。
どの家に付くかで次の時代の勢力図はがらりと変わる。今はほとんど各貴族の家主しか参加していないが、来月の会が始まればカプリチオの貴族という貴族が一堂に会することになる。家主だけでなく、成人以上の迎えた全てのカプリチオ貴族に投票券があるからだ。そして開票後、盛大なパーティーが催され、現当主から新当主への委譲の儀が執り行われるのである。
それにしても幼馴染の帰宅が遅い。御所までそれほど遠くもないし、会議は夕方までに終わるだろうと言っていたが、何かあったのだろうか。先日の襲撃のこともある……。玄関のあたりから外を見てくるか。アマルは柔らかなシルクのシーツを揺らして、スプリングの効いたベッドを降りた。
階段を下って廊下に出ると、不意に蝋燭の灯りが前方に見えた。
「浴室なら反対側よ、アマルティア君」
蝋燭の炎が、燃えるような緋い髪を照らしていた。鬼灯の形をした緑の宝石がその耳で揺れている。
「あ……、これは、ダビィ様」アマルは丁寧にお辞儀をする。呼び方はファーストネームで統一だ。『小母さん』という呼び方はこの人には似合わないし、かといって『お母様』と言うのも『お義母様』と呼んでいるようなのでちょっと遠慮してしまう。後者に関しては、意識しすぎかもしれないが。
「アテネの帰りが遅いので、少し外の様子を見てこようかと思ったのです」
あまり人の屋敷でウロチョロするなという視線を感じたので、アマルは釈明する。時期が時期だし、何か嗅ぎまわっていると誤解されても困る。
「そういうこと……。元老院会議は長引くものなのよ、直帰ってくるわ。それに辺境伯が送ってくださるそうだから、心配いらないわ」
「ましら伯ですか。それは安心ですね……」言いつつも、少し喉に引っかかる感じだ。帰りもあの人と一緒なのか。ずいぶん親しくしているんだな。
色褪せた桜色の瞳が、何か思わし気な目でこちらを見る。「気になるのかしら、二人のことが」
「えっ、いえ……。かの御高名な稀人の知遇を得ているとは、羨ましい限りだなと」
「そう。私としては、正直あまり感心しないのよ。若い2人でしょう、もしものことがあってはと、心配する気持ちもあるわ」
「ダビィ様は、お二人の仲には反対なのですか」
少し意外に思って聞き返す。ダビィは美しい横顔を曇らせ、遠い目をして答えた。
「アテネも成人したとはいえ、まだ15でしょう。あのくらいの歳の子は、年上の男性に憧れるもの。それでいてちゃんとした異性を選ぶだけの経験もないわ」
「ましら殿は、心根の良い人のように思えましたが。身分もきちんとされたお方です」
「そうは言っても、魔境から出てきた成り上がりの貴族だわ。血統も後ろ盾も無い。貴方のような生粋のカプリチオの貴族のような人だったら、良かったのだけど」
「いやあ……」
まんざらでもない気分だが、どう答えるのが正解か分からず、アマルは言葉を濁した。ダビィはアマルの反応をじっと眺めていたが、不意にずいと顔を寄せた。アマルは少しどきりとする。歳は向こうの方が15も上だが、上背はこちらの方が高いし、彼女の顔は少女のように若々しかった。なにより、暗がりの中でその顔に迫られると、まるでアテネに接近されているような錯覚を覚える。
「アマル君。貴方はまだ、アテネとの許嫁の話を覚えてるでしょう」
「それは……」
「隠さなくてもいいのよ。女には、懸想している男の顔は分かるものよ」
囁くように彼女が言う。思わず小さく唾を呑み、アマルはどぎまぎと答えた。「……ええ、ダビィ様。しかし許嫁と言っても、父上たちも本気では……」
「本気かどうかは、貴方次第で変わるのではなくて?」
アマルは思わず彼女の顔を見返す。ダビィの表情は真剣だ。
「貴方は血筋にも恵まれているし、将来も有望だわ。南で士官候補生として、優秀な活躍を見せているそうね。私はこの親族会議、当主は貴方が継ぐべきだと思っているのよ」
思ってもみない発言に、アマルは小さく声を漏らした。ダビィが焦らすように顔を背ける。
「ただアマル君、あなたはその大任を負うには若すぎるわ。かといってそちらの四季家が当主家になっても、三代の内に貴方が当主を担うのは難しい。貴方の御父上は四男だし、四季家の長男にはまたさらに五人の子供がいる。奥方も優秀だから、なんなら彼女がその跡を継ぐかもね」
「っ、分かっています。そのために私が功を挙げねばと……」
「あら、そんなことをしなくても、もっと手っ取り早い方法があるじゃない」
ダビィがほっそりした白い指を伸ばした。アマルの顎に詰めたい手が添えられる。「貴方が私の義息子になればいいのよ。言ってる意味、お分かりになる……?」
ごくり、とアマルの喉が動く。
「……卿家に当主家を続投させ、俺に婿に入れ……と」
「いい子ね、よく言えたわ」
ダビィが満足そうに微笑み、指を離す。
「とはいえ、アテネとの結婚は焦らなくていいわ。目下のところ重要なのは、貴方が近しい人間を説得して、卿家に票を集めるように仕向けること。そうすれば卿家の当選は堅いものとなる。この親族会議も平和に収まるし、四季家と卿家の仲も深まって良いことずくめよ。貴方の御両親も喜ぶわ」
アマルは押し黙って考えた。自分が当主を継ぎ、アテネを嫁に迎える……、そういう考えが無かったわけではないが、自身が婿入りするという手段は思案の外だった。だがたしかに言われてみれば、その方がずっと現実的で、あれこれの問題が丸く収まる。アテネを政争から遠ざけることができるし、俺が当主を継げば父母も実質当主家と同格の扱いだ。説得に応じてくれる可能性は高い。いや、もしかすると既に両親への根回しは済んでいるという可能性も……。
考え込み出したアマルの肩を、ダビィがぽんと叩いた。
「難しく考えなくていいのよ。貴方の素直な気持ちに従えばいいの」優しい声音で言い、それから離れて玄関の方を見る。「……さて、そろそろアテネが帰ってくる頃かしら。夜道も暗いわ。誰かが出迎えてくれると、あの子も喜ぶと思うのだけれど」
「……そう、ですね。……お母様」
玄関を出ると、ちょうど玄関から外門までの小径を、サテュロスが歩いているところだった。同じくアテネの出迎えかな、と思いつつ、先の話の後だから、何とはなしに気まずくてダビィは隠れた。庭の茂みを通って、塀の近くまで迂回する。外目には目立たないが、実は庭の隅に塀の崩れている部分があって、そこからこっそり外に出ることができるのだ。昔はアテネとよく抜け出していた。
路地の遠くから、話し声が近づいてくる。アテネの声だ。ちょうどいいタイミングだったな、驚かせないようにゆっくり出るか……、と、垣根に手をかけたところで、アマルは手を止めた。
たしかに塀には隙間が出来ていた。記憶のままそれはあった。しかしその穴を通り抜けるには、彼はもう成長しすぎていた。小柄な大人ならともかくも、今のアマルには外の様子を垣間見るのが精々だった。
塀の裏に二つの足音が重なる。アマルはそっと顔を壁の隙間に寄せた。アテネの顔が見えた。美しく、女性らしく大人になった顔が、幸せそうに笑っている。
恋をする男の顔が女には分かる、というダビィの言葉を、アマルティアは思い出した。そして痛感した。きっと、逆もそうだ。
潤んだ瞳、ほのかに色づいた頬、いつもより少し高い声。好きな男と二人でいる時にだけ、彼女が見せる表情。俺の知らない表情。
アマルは少しの間無言でその場に立ち尽くした。それからやおら顔を上げると、藪を抜け、塀伝いに正門の方へ向かった。
「……あら、アマル?」
正門と玄関の間で、アテネと顔を合わせた。
「どうしたの? 葉っぱまみれだけど」
門の方に目をやると、サテュロスとましらが屋敷を通り過ぎていくのが見えた。そのまま散歩にでも出かけるみたいだ。
アテネが何の気もないように手を伸ばしてきて、こちらの髪を掬う。ひらりと若葉が落ちて、救いがたい苦みが、胸の奥からせり上がってくる。アマルはそれを噛み殺し、アテネの肩を掴んだ。「……アテネ!」
「は、はい」アテネがびっくりしたように目を見開く。
「お前に言わなきゃいけないことがある」
「……? うん」
「……でもその前に、やらなければならないことがある。男として。分かるな?」
「いや、分からないけど」
「筋を通すってこと」アマルは手を離して、外門の方へ体を向けた。「とりあえず今はそれだけ言っとく……、続きはまた」
正門に向かって駆けていったアマルを見ながら、ひとり残されたアテネは不思議そうに首を傾げた。
勢い飛び出してはみたものの、ましらはサテュロスと一緒であることを忘れていた。さすがにサテュロスがいる前では具合悪い。アマルは茂みに潜んで、ましらが一人になるのを待った。
二人は何やら話し込んでいて、屋敷からある程度離れた通りまで歩いた。暗くてよく見えなかったが、道端に馬車が止まっていて、サテュロスはそれに乗り込んでどこかへ去ってしまった。
「そろそろ出てきたらどうだ」ましらが向こうを向いたまま言った。アマルはびくりと体を震わせる。「門の前から追けてたのは分かってる。いい加減姿を現したらどうだ」
さすがは一国の英雄だ。こちらの尾行などお見通しというわけか。アマルは感心し、茂みから飛び出した。「ましらさん、貴方にお伝えしなければいけないことが……」
「あ、ごめん君の方じゃない」
「えっ」
ましらが片手を挙げて制した。アマルはぽかんとして固まる。ましらが伸ばした手をすっとアマルの後方に向けた。「……後ろの2人だ」
背後の闇から、ぬらりと二つの影が現れた。羽織に包まれた小柄な体躯を月明りに曝し、くすくすと漣のような笑い声を立てて、垂れ幕の下がった笠を外す。
「……!?」
アマルは闇の中に解き放たれた金銀の煌きに目を見張る。ミディアム・ロングの髪が夜空になびいた。「ユードラとミーグル?」
「見た顔だな。その装束、五刑……、院の刺客か」ましらが、白の羽織をメイド服の上に重ねた双子を睨んで言う。
「待ってください、ましら伯」
アマルはましらの前に立ちはだかる。
「彼女たちは怪しい者ではありません、俺が保証します。ましらさんも昼間会ったはずです。彼女たちはカプリチオの使用人で……」
弁明の途中で、不意にましらの姿が消える。首根っこに圧力を感じる。視界が揺れると同時に、夜気を切り裂くような音が、目の前を走った。
尻餅をついてから、アマルはいつの間にか真横に回り込んだましらに襟を掴まれ、横ざまに放り出されていたことを理解する。そのすぐ傍を掠めて、妹の放った笞が通り過ぎたことも。
「躱されたの」「ましらの空間移動だよ。ミーグルは下がって」
銀髪の妹の前に立った金髪の姉が、すらりと腰元から鞭を抜き放った。奇妙な光沢のある異様な鞭だ。ユードラは地面に向かって鞭を叩きつける。
地鳴りがする。ましらが後ろに飛び退るのを見て、アマルも後転して起き上がった。彼らの居た地面を突き破って、巨大な獅子の手が飛び出した。
「餌の時間なんだよ! 『獏鸚!』」
地下空洞より這い出てきた生物の羽に乗り、ユードラがぺろりと舌を出す。人の体程の大きさの山羊の頭骨を纏い、獏のような長い鼻を持った獅子の顔が、そこに現れた。