第4話 二所朝廷
「新たな都?」
帝は余裕のある面持ちを崩さずに繰り返した。「……それは二所朝廷を意味する。政治的混乱は避けられませんよ」
「ああとも。無論、そのような状態を長く続けるつもりはない。王朝は一つであるべきだからね」
院と帝の間に視線が交わされる。乾いた空気の中に火花が迸るようだ。
帝が視線を緩め、ふっと微笑む。
「お戯れを……、叔父上。正統なる中つ國の朝廷として認められるには『三種の神器』がいる。貴方もよく知っておられるでしょう」
「しかし君たちは、その一つを欠いているようだが?」
院が穏やかに言い返す。帝が肩をすくめる。
「獄窓にも噂は届いておりましたか。たしかに古代兵器……三種の神器の一つ『天叢雲剣』、あの古塔は、緑衣の鬼事件で失われた。しかし『八咫鏡』と『八尺瓊勾玉』は依然、我々の手元にある……」
「ということはだ、我が姪よ。君が今認めたところによると」院は三本の指を立て、それから薬指を畳んだ。「三種の神器は三つ全て揃っておらずとも良い。現に今の朝廷は、内二つの所持によってその正当性を認められている」
「何が言いたいのです? 叔父上」
帝が眉を顰める。
「こういうことだよ」獄門院は中指を下ろし、一本の指だけを天に向けたまま残した。背後の長身の褐色の男が肯き、院の足元に来て跪く。その手には剣のようなものが捧げられている。緋い骨組みの浮き出た傘のような形状の剣だ。
「……まさか」
帝が目を見張る。
「そのまさかだよ」
院は男の差し出した剣の柄を掴み、議場に向けて掲げる。「我々も持っているのさ……。三種の神器の一つを」
「『天叢雲剣』……! 再構築したのか……!」
議席からジェミナイア族の長が口惜し気に呻く。院が満足げに肯く。
「扱いやすくミニチュア化してね。ジェミナイア族……、君たちの一族には実に良い宝具鍛冶が揃っているね。サガ、駄目じゃないか、彼らを放っておいては。君は先のクラマノドカの乱の結末として、東国を野風に明け渡したろう。ではそこに住んでいた民、ジェミナイアの技師たちはどうなる? 頭を失った錬金術師たちに、相応の仕事を提供せねば。彼らは職人なのだからね」
帝が眼光を光らせる。
「東国の残党も掌握済み、というわけですか……。ずいぶんと手が早い。出獄が決まる前から動き出していたと……」
「そういうことだ。生憎と夷の高官はほぼ殲滅させられてしまったみたいだがね、民は生きている。我々は言わば敗残兵の集まりだ。サガ、君という強者を喰らうのはかつての弱者たちなのだよ」
院は剣を下ろし、帝を見据えた。
「さて……、ここに二所朝廷時代が始まるわけだが……。東の帝よ。私は夷の田舎貴族と違って宣戦布告などしないよ。政争とは常に影の戦いであるべきだ。歴史の表に姿を現すことのない、名も無き者たちの屍が時代をつくる」
「同感ですね」
帝が冷ややかな表情で相槌を打つ。院が微かに微笑み、衣を翻す。
「決断は早きに限るよ、片割れの帝。願わくば此度の獄門(打ち首)、数少なに済ませたい」
廃帝は静かに言い残し、従者たちを引き連れて扉の外へ姿を消した。
〇
「別に送ってくれなくても良かったのに」
日の落ちた屋敷の外縁を歩きながら、アテネが言った。院の去った後の会議は混乱し、夜が深まるまで続いた。
「そう言うな。院の襲来があった後だ……、警戒するに越したことはない。というかそれ以前に、夜道を独りで帰らせられない」
「あら、女の子扱い……」
「親御さんが心配するだろ」
どちらかというと子供扱いかしら、俺の回答にアテネが不服そうな顔をする。
「それに今は、カプリチオも大変な時期なんだろう? いずれにせよ独りは危ないさ」
「まあ、それはそうね」
アテネも渋々認める。「実際私も、幼馴染をこちらに引き入れるように命じられてるわ。手荒な真似をするつもりはないけど……」
「へえ、幼馴染……、ああ、今朝あった男の子か。アマルティアと言ったっけ、人柄の良さそうな奴だったな」
「ええ。私の婚約者」
「フィ……⁉」
アテネが事も無げに放った言葉に、俺は愕然として立ち止まった。アテネが怪訝そうに振り返った。俺は呆然と繰り返す。
「婚約者ってつまり、結婚……」
「え、ええ」
「アテネが、あの少年と?」
肯く。それからアテネは意外なものを見るように俺の顔をまじまじと眺めた。「もしかして、動揺してる?」
俺は壊れかけの人形のように、無言で三回首を振った。方向はもちろん縦だ。アテネが何故か顔を明るくする。
婚約……、許嫁といった所だろうか。たしかにこの貴族社会なら、そういう風習が現役でも不思議ではない。しかしなんというか……。娘や妹が急に彼氏を連れてきたみたいな気分だ。世の父兄の気持ちが今、痛いほど分かる。
「ま、まあ許嫁といっても、父親同士が酒の席で交わした冗談のようなものだし……。そこまで本気のものじゃないわよ」
「あっ、そうなんだ。ふーん」
安堵するのも違うよなあと思いつつ、奇妙な気持ちで俺は返事をする。まあどこの馬の骨とも知れん奴とくっつくよりは、自由恋愛の方がアテネも幸せだよな。それはそれでお父さん複雑だけど。
機嫌を直したアテネを連れて門の前まで来ると、本物のお父上と入れ違った。「あら、お父様……」
アテネの言葉に、父親が振り向く。「おお、アテネ。帰ったか」
娘の帰りを外で待っていたのか。良い父親だな。俺が考えていると彼はこちらを見た。「これは、ましら辺境伯。そういえば、先日のお礼がまだでしたね。どうです、少し歩きませんか」
彼が夜の道を示す。俺は少し考えて肯いた。彼は満足げにアテネに声をかけた。「アテネ、お前は家に入ってなさい」
アテネは返事をして玄関に向かった。家の灯りの中に紅い髪が溶けていくのを見届けて、俺は彼の後に続いた。
「先日の襲撃以来ですね。お怪我はありませんでしたか。あー……」
「サテュロスです。サテュロス=ド・カプリチオ」アテネの父が名乗る。「娘共々助けていただいたというのに、お礼もしませんで……。よければ、ご住所を教えていただけませんか。後で返礼の品を……」
「いえ、礼には及びませんよ。彼女には僕も助けられてる」俺は頭を振る。
「はは、そういうわけには」サテュロスが笑む。見た目は若々しいが、笑うと目じりに皺ができた。しかし赤紫の丁寧に撫でつけられた髪には白髪一つなく、年相応の気品を持った美男子だった。アテネの美少女ぶりは遺伝なんだな、と思いつつ、サテュロスも若い頃は相当モテたに違いない、などと俺は考えた。
「日頃、うちの娘がお世話になっているようで。お話はよく聞いております」
「いえ、むしろ僕の方が世話になりっぱなしですよ。なにしろ貴族の世界は不案内だから……」
それから少し世間話をしながら路地を歩いた。あまり政治の話には関心がないらしかった。話を聞くと、サテュロスは若い頃に婿入りした身で生来の貴族ではないらしく、このカプリチオの跡目争いにもほとほと疲れているのだと言った。
「だから貴方には好感が持てますよ、辺境伯」
彼は俺の肩をぽんと叩いて言った。たしかに俺も平民出の貴族だ。というか元は、そもそもこっちの世界の住人ですらない。
「稀人だからでしょうね、貴殿にはどこかミステリアスな雰囲気がある。若き元老院にして王都を救った英雄……。さぞかしこちらの方もお盛んでしょう」
サテュロスが声を落として言う。意味あり気に小指を立てている。
「はあ、いや、特定の相手がおりますので……」
「ははは、謙虚な方だ。色恋は貴族の嗜みですよ。英雄色を好むとも言いますしね」
そういうと彼は路地の反対側に手を振った。目立たない所に馬車が止めてある。幌の内から若い女が手を振り返した。
「では私はこれで。今度、お礼に良い相手を紹介しますよ」
サテュロスは爽やかに言い残して颯爽と馬車に向かっていった。もしかして、外にいたのはアテネを待っていたからではなかったのか? 夜の道を静かに抜けていく馬車を見ながら俺は考えた。
いや、今はそれは置いておくか。
俺は思考を脇に置く。
「そろそろ出てきたらどうだ」
組んでいた腕を下ろして、後ろの気配に向かって言った。「門の前から追けてたのは分かってる。いい加減姿を現したらどうだ」
振り返る。押し殺したような静寂が過ぎ、街路沿いの茂みが擦れ合う音を立てて動く。紫の葉を散らしながら、オレンジの髪の少年が現れた。