第3話 還ってきた男
翌日元老院の緊急招集に応じた俺は、アテネを迎えにカプリチオの屋敷を訪れた。
「はーいなの」
呼び鈴を押すと、中から銀髪の少女が出てきた。服装からしてメイドといったところだろう。俺は要件を告げてアテネを呼び出してもらう。
「ユーが呼んでくるんだよ」奥から箒を抱えた、同じ顔で金髪の少女が手を挙げた。双子だろうか。背丈から声色まで完全に同じだ。
俺はちょっと屋敷を見渡す。広い邸宅の中にざわざわと人の気配がある。そういえば今は親族会議の期間と言っていた。カプリチオの貴族がこの邸宅中に停泊しているのだろう。
「うおっ!」
横から驚きの叫び声がする。俺が振り向くと、アテネと同じ年頃くらいの橙色の頭髪の少年が、目を輝かせてこちらを見ていた。額に汗を浮かべ、柔軟性のある服を泥で汚している。稽古帰りといった雰囲気だ。少年が興奮した様子で口を開く。「あのっ、元老院の真白雪殿でいらっしゃいますか? もしや!」
少年らしい見た目とは裏腹に口調はどこか上品だ。「あ、ああ。君は……、アテネの親戚ってとこかな?」
「はい!」少年は嬉しそうに肯く。「アマルティア=デ=カプリチオと申します! お会いできて光栄です、ましら殿。八虐を二人も捕えた英雄にお会いできるとは……」
「そう呼ばれるとこそばゆいが……」
俺は頭を掻く。俺もかつては英雄という称号に憧れ、執着して生きていたものだが、その願望を捨てた今は、気恥ずかしい誉だ。
「そんなご大層なものじゃないわよ」
少年にせがまれて握手に応じていると、奥から汗を拭いながらアテネがやってくる。少年と一緒に修行していたのだろう。
「ご挨拶だな、アテネ。今日の召集のことは……」
「ええ、聞いてるわ。すぐに準備して……」俺の側に近寄りかけて、ふと彼女は立ち止まった。
「?」
俺は首を傾げる。
「待って、それ以上近寄らないで」アテネが手を突き出して止める。
俺はガーン、とショックを受けて固まる。「ここで待ってて。シャワー浴びてくるから……」アテネが慌てて屋敷の中へ引っ込んでいった。
「急にどうしたんだ? アテネのやつ」少年が銀髪のメイドに尋ねる。「アテネ様もお年頃なの」メイドが分かっていないなという風に少年を見返した。少年の汗の粒に太陽がきらりと反射した。
会議の場はいつも以上に緊張感が漲っていた。前回のこともあり襲撃を警戒して空間移動で来たが、他のメンバーも今回は特に妨害を受けなかったらしい。全員が揃って顔を出していた。帝は例によって御簾の内側だ。
「あれから帝にお会いした?」
礼服姿のアテネが聞いた。あれからというのは夷襲撃の一件のことだろう。俺は肯く。
「ああ。旧世界の知識や歴史を文書に残す必要があってな。俺の血を帝の能力で読み取ってもらって、情報を明け渡した。見返りに俺の能力の詳細を教えてもらったよ。俺自身が把握してないことまで。お陰でこの世界で生きていく決心が、揺るがないものになった」
過去に戻ることはできない。
それが帝が俺の能力を見抜いて告げた真理だった。未来に行くことはできる。しかしそれは一方通行の度で、決して過去を変えることはできないのだ。それは能力の限界と言うよりも絶対の物理法則らしかった。
この世界で生きていく、そう言った俺の言葉を聞いて、アテネが顔を輝かせたように見えた。「なんだ、俺が向こうに帰らないのがそんなに嬉しいか? 心配しなくてもずっとここにいるよ」
「う、嬉しがってなんかないわ」アテネは顔を僅かに赤らめてそっぽを向いた。「ただ、あなたほどの人にさえ、自覚していない潜在能力があるんだって思っただけ。まだまだ私にも伸びしろがあるってことだわ」
書記長が入室してきて会議の準備が整えた。俺は話題を会議の件に戻す。
「しかし、このタイミングでの急な招集……。やはり院のことかな」
同意するようにアテネが首肯する。
「獄門院の対策でしょうね。釈放が可決されたとはいえ、海中監獄は三大監獄の一つ。院が出所の一通りの手続きを済ませるまでの期間を猶予に、こちらの出方を固めておくということだと思うわ。元老院から院の方に流れる者が出ないとも限らないし……」
そこまで言うと、アテネはふと気づいたように口を尖らせた。
「私たち、政治の話ばかりしてるわね」
「そりゃ会議の席なんだからそうだろう」俺が答えるとアテネはますますむすっとした表情になった。反抗期というやつだろうか。俺は腕を組む。あるいは、思春期だ。
ヴァルゴー族の族長、イタロが咳ばらいをした。準備ができた合図だ。皆は静粛に、居ずまいを正した。
奥の垂れ幕が開いて、金銀を混ぜた煌びやかな御髪を纏った帝が、珍しく姿を見せる。彼女はこちらを見渡し、厳かに口を開いた。
「皆、先の会議の日は大儀であった。反帝派の襲撃を受け、手傷を負ったものもいるだろう。他の皇族に代わって、蛮行を詫びる」
彼女は目を閉じ、微かに頭を傾けた。
「今回貴殿らを呼び集めたのは他でもない、我が叔父獄門院のことだ。院はかつての私の政敵。出獄が決まり、反帝派の動きも活発になることが予想できる。まず我々が打つべき手は、彼にかつての部下を揃えさせないことだ。特に『五刑』と呼ばれる先帝の直下組織、あれを再結成されることは防がねばならない」
「旧近衛兵の上位五名で構成された幹部部隊、でしたか……。たしかにあれは、かつての13番隊を凌ぐほどの精鋭たちでしたね」
スコルピオの族長が言う。レオニアの族長が記憶を辿るようにして捕捉する。「『笞杖徒流死』……古い五つの刑罰になぞらえられた称号を持っていたよな。もう生き残りは殆どいない。『笞刑』と『杖刑』のカプリチオの夫婦は政争の中で死亡、『『流刑』のラバスティーユは、あの時降伏してる」
俺は確認するようにアテネを見る。さすがに当時のことまでは、という顔でアテネが首を振った。
「『徒刑』の銀将門はその後捕えられ、獄中死しています。野風にしては異例の抜擢でした。あの時捕えておけば、8年前の叛乱も起こらずに済んだのですが……」
「それはたらればですよ。当時の銀将門の支持は絶大だったし、彼を処刑していたら、15年前のタイミングで野風の蜂起が起ったはずです」
「実際、院を売って投降したもう一人の幹部、『流刑』のラバスティーユはその後警察隊に編入し、目覚ましい活躍を見せた。今はカミラタに次ぐ長官として海中監獄の典獄まで任されている。お咎めなしというのは、あの当時の判断として妥当でしたよ」
「過去のことはいい」
元老院たちの議論を断ち切って、帝が口を挟む。
「重要なのはこれからどうするかだ。既にいくつかの手は打ってある。まず五刑最大の忠臣、『死刑』のザフラフスカ。八虐にも認定された奴は現在『空中楼閣』での刑期を終え、出所中だ。院の下に馳せ参じる可能性が高い。奴の居所を特定し、合流を阻止するのが最優先の課題……」
「残念だけどその課題は、期限切れみたいだよ」
扉の開く音がして、陰鬱な声が場内に谺した。帝が僅かに体を固め、入口へと視線を滑らせる。一同の目線がそれに続く。扉から差し込む光を、七つの影が遮っている。
帝が忌々し気に呟く。「……獄門院」
「久しいね、サガ」
高貴な礼服に身を包んだ痩身の男が、冷ややかな微笑を見せた。
「あれが獄門院……!」
俺は素早く彼の容姿を観察した。年齢は三十代半ばだろうか、帝と似た鼻筋の通った上品な顔、銅と銀のオッドアイが気高く並び、よく整えられたブラウンの髪はつい先日まで獄中にいたとは思われない艶を帯びている。立ち居振る舞いには囚人の粗暴さは微塵も感じられず、まるで今の今まで宮廷で暮らしていたかのような、骨にまで染みた品格が滲み出ていた。
白い装束に身を包んだ背後の六人のうち、女性らしき三人は白い垂れ幕のついた傘をかぶり顔を隠している。一人は長身で、もう二人は丁度同じくらいの小柄だった。
残りの3人に目をやろうとした矢先、周囲の元老院たちがざわめいているのに気付いた。無論突然の乱入者に対して驚いてもいるのだろうが、どうやらそれだけでもなさそうだ。
「皆何に動揺してるんだ?」
俺は小声でアテネに尋ねる。「さっき院が発した名前……、あれは帝の真名なのよ」アテネが耳打ちで答える。「皇族の真名を公然の場で口にするのはタブー。許されるのは明確に序列が存在している場合。例えば自身の御子を呼ぶ場合や、帝が他の皇族の名を告げる時。つまり今のは……」
「自分の方が格上であることの、暗黙の誇示、か」
俺は帝を見る。帝はしかし、院が現れた際に見せた一瞬の動揺を既に沈め、鷹揚な佇まいで鎮座していた。
「お久しゅうございます、叔父上。懐かしの都の空気はさぞ美味でしょう。磯の香のしない空気を吸うのは、久方ぶりでしょうから」
暗に監獄暮らしを揶揄して帝が言う。
「ああ、やはり都の空気はかぐわしいね。……見ない間に、君も随分と大人になった。まあ、君は昔から大人びていたがね」
「叔父上もご健勝のご様子で。此方の見立てよりもお早いご帰還……、ザフラフスカも回収済みのようですね」院の背後で沈黙する褐色の男を見て、帝は言った。
「それに水中監獄が典獄……、『流刑』のラバスティーユを取り戻していましたか」
「『取り戻す』とはまた異なことを」
後ろから進み出た典獄が答える。灰色の豊かな顎髭を蓄え、制帽を目深にかぶった、戦艦の艦長のような身なりの初老の男だ。「私は獄門院殿下から心離れしたことなど一度もござりません。かつて我ら五刑のとった降伏行為全ては、来る殿下のご再訪に備えてのこと。我々は誰一人として疑っていなかった。殿下が再びかつての地位を取り戻すこと、そして五刑が再び結集することを……」
「そしてここに、それは成った」フードを脱ぎ、背後の白いシルエットが進み出る。あ、と俺は驚いた。それはあの白い野風だった。
「白い野風……。銀将門の息子か」レオニア族の族長が目を見張る。「西国の部隊に配置されていると噂に聞いていたが……、警察隊を裏切ったか」
「彼は裏切ってなどいないよ、ザグレウス」
院がレオニアの族長を見すえて言った。「彼は警察隊のままだ。警察隊は私の指揮の下に、新たに再編成される。西国の警察隊本軍は、ラバスティーユらを介して既に私の手元にあるんだ。私も懐古趣味でね、五刑も当時のメンバーの子息を採用して、かつての五人を再現したんだ。今の彼らは、全盛期以上だよ」
「だが後ろの六人……、五刑には一人多いようだぜ」
俺に声を掛けられ、院はちょっと驚いたような表情をした。それから穏やかな表情でこちらを見た。「……君が真白雪か」
「いかにも」俺は肯いた。
院は長身の女を手で示す。「彼女は大陸からの過客でね、部下ではない。かの汎国との架け橋にして、有益な助言をくれる政治顧問として席を置いているんだ」
それから手を下ろし、俺の顔をまじまじと見つめる。
「しかし人外座主のましら……、噂には聞いているよ。八虐二人の投獄……、驚嘆すべき功績だ。だがそれ以上に讃えるべきは、その人徳だね。私の時代から既に抗争状態にあった城下の野風たちをまとめあげ、八虐の緑衣の鬼さえ改心させた。それから敵対していた東国の次席を、味方に付けたそうだね。実に優れた資質だ。ぜひ引き入れたい」
「見る目のあるお人のようだな」俺は答えた。院は静かに首を傾けた。
「彼だけではない、ここにいる元老院の皆々も、実に優秀だと聞いている。私は以前のように皇族に踊らされるつもりはない。先日は私の部下が先走り、無礼なことをしたが、君たちさえ許してくれるならば、ぜひ私と手をとって、新しい中つ國を築いていきたいと思っている。門戸は開いている、いつでも訪ねてくれたまえ」
「私の前で人員の勧誘など、院の下はよほど人材不足なようですね、叔父上殿」
帝が頬杖をついて口を挟む。「しかしこの御所に、貴方の座すべき椅子はございませんよ」
「それには及ばないよ、サガ」院は再び帝の名を口にして続ける。「今日ここに来たのは君に挨拶をするためだ。私は既にこの王都への興味を失っている」
「……と、言うと?」
帝が金銀の鋭い目で続きを促す。院はその鈍い銀と銅の眼で帝を見返した。
「私は西の古都、祇園に次の都を再造するつもりだ。私は院として、正式かつ新らしき朝廷の誕生をここに宣言する……」