第2話 山羊の一族
王都北部には広大な領地をもつ屋敷が聳え立っている。赤レンガの塀に囲まれた敷地には、もはや自然公園と呼んでもいいほどの広い庭園が続き、日の光を反射して眩いエレガントな屋敷がその中央に鎮座している。『磨羯宮』。カプリチオ族における四大貴族の一角、卿家の一族がここに住んでいるのだ。
アテネは民族花の植わっている庭園のベンチに腰を下ろし、憂鬱そうに眺めた。視界に入る鬼灯はどれも根腐れして満足に咲いていない。生垣も人の眼に着くところは手入れされているが、目立たない場所には雑草が伸び放題だ。この数日の間に父が職人を呼び、庭園と屋敷内を急ピッチで整えさせた。他のカプリチオ貴族が一堂に会する親族会議、彼らに卿家の栄華と威厳を示す……、という意図らしい。
こつん、とベンチに何かが落ちてくる。胡桃の実だ。アテネは顔を上げた。目の前の木の低い枝の上に、美しい羽根の鳩が止まっている。
鳩はアテネの横に下りてくると、胡桃を拾いなおした。小さく羽ばたいて、止まったのはいつの間にか現れた少年の腕だった。
「あら、えっと……」
アテネは戸惑ったように少年を見上げた。活発で聡明そうな顔がにこりと笑う。
「なんだよアテネ、幼馴染を忘れちまったか?」
オレンジのざんばらな髪の下に煌く、ウルトラピンクの瞳と目が合う。「あ」アテネの中に懐かしい記憶が溢れた。「もしかして、アマルティア?」
「ご名答。悲しいぜ、こっちはすぐに分かったのによ」
少年は冗談めいた素振で両手を上げる。アテネもつられて笑顔になった。
「もうこっちに来てたのね。雰囲気が変わってたから気付かなかったわ。7年ぶりくらいかしら?」
「8年ぶりだよ。そんなに変わったか?」
鳩を空へ放して、アマルティアと呼ばれた少年は尋ね返した。
「そりゃそうよ。前はいつも顔に泥つけてたじゃない」アテネは少年の全身をまじまじと眺めた。見ない間に随分と身長も伸び、細い体に筋肉のついた好青年といった風貌に変わっている。身のこなしや面立ちにもどことなく優雅さが宿っていて、瀟洒な衣服も、彼に袖を通されて当然といった表情を布地に浮かべていた。
「それを言うなら、アテネだってお嬢様の『お』の字もないお転婆娘だったぜ。しかし何というか、大人っぽくなったよな。背も伸びて、お母上に似てきたな」
「ふふ、大人の淑女になってきたということかしら」
アテネがしゃなりと背筋を伸ばし、悪戯っぽく微笑む。少年も快活に笑って、ベンチに歩み寄った。少し距離をとって、アテネの隣に座る。
「まだお母上に叱られて泣いてるのか?」
「そんなことなかったわよ。アマルこそ、未だにぬいぐるみと寝てるんじゃなくって?」
「寝てるかよ、このやろ」アマルは明るい声で返す。それから徐に腕を後ろに組んで空を見つめた。二羽の鳥が睦まじく飛んでいく。
「……お祖母様の事は、残念だったな」アマルは真剣な表情になって言う。「うちの親父もお袋も、殺気立ってる。跡目争いはどの民族も熾烈だ。お前も気を付けろよ」
「ええ、お互いに」
アテネがベンチの上で足をぶらぶらとさせながら返す。口調は気楽だが、表情は曇ったままだ。
「卿家のことなら心配いらない」アマルは励ますように言って、それから少しためらうように間を置いた。「俺が……、四季家が当主になればいい」
「ちょっと、それって宣戦布告?」
「いや、そういうことじゃなくて」アマルが弱ったように頭を掻く。「うちが当主家になれば、卿家も安泰だろ。ほら……俺たち、いいなず……」
「あーっ、アテネお姉さま!」
唐突にベンチの上から飛んできた声に、2人は飛び上がる。頭上を仰ぐとベンチの後ろの生垣の上から、ミディアム・ショートの愛らしい金髪とベビーピンクの二つの瞳が覗いている。その横からひょっこりと、銀髪で全く同じ顔の少女が顔を出す。「アマル様もいるの!」
「おわ、ミーグルとユードラか。懐かしいな双子ども。まだここのメイドだったのか?」アマルが金銀の髪を仰ぎ見ながら目をぱちくりとさせた。「今日はお手伝いにきたのー」ミーグルと呼ばれた銀髪の方が答えて、少女二人は生垣の上からひらりと飛び降りる。メイド服の裾を膨らませながら綺麗に着地した。
「ずいぶん前に引っ越してしまったけど、また雇人として来てくれたのよ。『牧羊神の会』に備えて人手がいるから」
「なるほどな。しかしお前らはまだガキっぽいなあ」
アマルが双子を眺めて言った。
「一つしか違わないんだよ」ユードラと呼ばれた金髪の少女の方が頬を膨らませる。
「馬鹿言え。俺たちは15で、もう成人してるんだ。この一年の差はでかいぜ」
姉妹が揃ってアマルに舌を出す。アテネがくすくすとその様子を見守る。「二人とも遠くから来てくれてありがとう。少しの間だけど、また家をお願いね」
「さすがアテネ様、大人の対応なの」「アマル様とは大違いなんだよ」
「へっ、この平民め、言わせておけば!」
アマルがにやりと笑って立ち上がる。姉妹がさざめくように笑いあって逃げていく。アマルもふざけてその後を追いかけていく。「またねー! アテネお姉さま!」「あとで恋バナするのー!」 三人の華やいだ笑い声が生垣の向こうへ消えていった。アテネは微笑んで手を振りながらまたベンチにぽつんと独り座った。
「子供は賑やかね」
横から近づいてきた声に、アテネは反射的に振り返る。いつの間にか母が近くまで来ていた。アテネより少し薄い桜色の髪、三十余とは思えないほど若々しく高貴な姿だがサーモン・ピンクの瞳は大人らしい冷めた落ち着きを宿していた。喪に服し色味を抑えたドレスも、彼女が袖を通すだけで仄かに色づくようだった。
「貴女は年相応に成長してくれて嬉しいわ。犬のようにはしたなく駆け回る真似は貴族にとして相応しくない。……あの四季家の坊や、きちんと首輪をかけておきなさいね」
「お母さま、彼は大切な友人です。そのような言い方は……」
氷のような冷たい視線が、アテネを射すくめる。アテネは口をつぐむ。
「彼が何のために来たのか、忘れたわけではないでしょう。四季は当主家の座を争う政敵よ。子供じみた馴れ合いはよしなさい」それから詰まらなそうに嘆息する。「掃きだめの猿たちから、悪い影響でも受けたのかしら」
「……申し訳ありません、お母さま」
アテネは言い返すこともできず、目を伏せて詫びた。「地に目を這わせる仕草は、高貴な者に似つかわしくないわ」母親は彼女の顔にそっと手を伸ばし、顎を軽く持ち上げて視線を合わせた。
「お母さま……」
「彼に催眠をかけて、四季家を牽制しなさい」彼女は命じるような口調で言った。「母を失望させてはいけませんよ、アテネ」