第29話 呼吸
暗く、冷たい闇が、湖底に広がっていた。氷のように白く儚げな髪が水の中になびく。リリの体が、闇の奥へ吸い込まれていくのが見えた。
筋肉を凝縮し密度を高めているリリの肉体は、水に沈みやすいはずだ。俺は必至に水をかき分け、湖中へと深く突き進んでいった。
腕を掴む。既に酸素も尽きたのか、意識を失いかけているリリの体を抱き寄せる。俺は唇を重ね、彼女の体に空気を送り込んだ。
ゆっくりと瞼が開き、緑の瞳と目が合った。
地上の光の中に泳ぎ出でると、俺は喘ぐように息を吸って、酸素を体の中に取り込んだ。隣で顔を出したリリも同じように呼吸をして、激しく噎せ返っている。
「大丈夫か?」
俺は彼女を抱いて水面の位置を維持しながら、尋ねた。彼女は荒く息をついて答える。
「はあ、死ぬかと思いました」
岸に泳ぎ着いて、雪の上に2人で這い上がる。地面の上に崩れるようにへたりこんだ。たしかな大地の感触が心地いい。
あちこちの岸や氷の上には、目を覚ました大勢の人が難を逃れ辿り着いている。塩分の濃い湖なのか、比較的浮力が高く、気絶している人も水面に浮かんでいる。人々は助け合って湖面に取り残された人たちを救助していた。
「警察隊じゃないな。この街の住人……か? 見たところ無事なようだな。にしても凄い景色だ、なんたってこんな人数が集まって……」
「バフォメット……、『紅喰い』の催眠ですよ。叢雲で街中の人間を兵隊に変えたんです。催眠が切れているという、ことは、彼女の複製は……」
リリの視線の先に、雪の中に埋もれた藁人形が転がっていた。
「……ちょっと待て、紅喰い? 奴がここに居たのか?」
「ん……、彼女を知っているんですか?」
リリが顔を上げた。俺は肯く。「東国で戦ったことがある。いや、しかし奴は男では……」
「紅喰い……、バフォメットは本来女性ですよ。彼女は大陸時代の古い知り合いでして、異種間混淆施術の被検体第一号なんです。元にした細胞が雄の野風のものだったから、野風状態では性別が反転していましたが」
「世間は狭いな……。それにしても君は、方々で恨みを買ってる」
「いやあ、それほどでも」
妙な謙遜をするリリに、俺はやれやれと肩をすくめた。リリは悪戯っぽく笑って俺を見返した。
「それにしても……、助けに来てくれるなんて思いませんでしたよ。それに、あんなに強引に唇を奪っていくとは」
「いや、あれは非常時だったから……、ね。医療行為だよ」
「ふふ……、まあ元は私の奪った唇です。返してもらったということにしましょう」
「……?」
俺は首を傾げた。リリが説明する。「ましら君とのファーストキスは、既に済ませてありますよ。あなたがこの世界へ来てすぐ……、滝へ落ちて気を失った時です。覚えてないでしょうが、蘇生のために人工呼吸しました」
「全然気づかなかった……」
「医療行為ですよ」
リリはぱちりと片目を閉じた。「今度はもっと、情熱的なやつをしてあげますね」
〇
叢雲回収の報は、御所内の形成を一変させた。近衛兵と増援の警察隊が院らを取り囲む。
「さて、これで打つ手が無くなりましたね、叔父上」
サガが玉座を立ち、階段を降りる。ボアソナードらと共に包囲された院の傍へ近づき、目線を合わせた。「やはりあなたはただの凡夫だ……。15年の準備を費やしたとてこの程度。一国を治める器ではない」
「言ってくれるね」
院は落ち着いた態度で返した。帝は色彩の異なる左右の眼で、同じく二種の色を持つ院の眼を見た。
「その落ち着き……、勾玉の発動時間も間近なのでしょう。解除コードは……、カプリチオの増援は間に合いませんでしたが、この状況なら拷問でいくらでも口を割らせることができる。貴方の敗けです」
「勝利とは何かな、サガ」
院は穏やかな表情を浮かべたまま、問い返した。「生き残った者が勝者かね。それとも、己の目的を達した者がそれを手にするのか。サガ、私は後者だと思う」
院は短く近臣の名を呼んだ。「ボア」
「御意」ボアソナードの腕が素早く動いた。袂に隠したナイフが閃き、場内の全ての者に緊張が走った。制止する間もなく、野風の力で押し出されたそれは……、院の心臓を深々と突き刺した。
「なっ……!」
帝が瞠目する。完全に想定を外したボアソナードの行動に、院だけは独り動じた様子もなく、口の端から血を流し、静かに笑った。「ありがとう、ボアソナード」
「望みのままに……、我が君」血が出るほどに唇を噛み締め、ボアソナードは肩を震わせながら答えた。
ナイフを引き抜く。院の体がぐらりと崩れ、ボアソナードの腕に抱き止められた。帝を仰ぐようにして、死相の浮かぶ顔で微笑む。
「近衛兵、大至急医療班を!!」
イタロが叫ぶ。「まだコードを聞き出していない! 彼を死なせるな!」
「無駄だよ……、イタロ。もう間に合わない。私は死ぬ」
「この期に及んで自爆を選ぶとは……! 帝、退避のご命令を!」
「いや、勾玉の効果範囲は御所を悠に収める。今からでは逃げきれん。叔父上もそれを分かっての行動だ」
サガは屈みこみ、叔父の顔を見つめた。「まだ血の契りは生きている。私が契約を飲めば、勾玉を解除してくれる。そうでしょう、叔父上」
「ふふ……、やはり君は賢い子だ、サガ」
青白い顔に微笑をつくり、院が肯く。
「しかしこの状況……、私に譲位を促しても、貴方が死んだのでは意味もありませんよ」
「分かっているさ。そもそも、初めから私は……、君に勝てるとは思っていない」
院は切れ切れに言葉を紡いだ。
「君の言うとおり……、私は凡庸な人間で、引き換え君は、天性の指導者だ。仮に君を追い落とせたとして、君の派閥の皇族や臣下たちが必ず反乱を起こす。私の天下は、長くは続かなかったろう」
「そうでしょうね」
帝が静かに肯う。院が苦く笑う。
「だが先刻も言った通りだ……。戦の勝利と……、政の勝利は別のもの。この戦の勝敗は……どちらでも良かったんだ。全ては、この状況を作るための布石にすぎなかった」
「……それなら、貴方の望みとは?」
院は意識を保とうとするかのように、深く息を吸って、吐いた。「現帝サガ、君が……、我が皇子、エックハルトを次の皇帝に擁立すること」
「……!」
「驚いたかい。私にも……、子供がいたんだよ。隠し子だけどね……、私の人生は、全て彼に託すと決めたんだ。君が後見人なら、なんの心配もいらない」
「……全ては、我が子のために……」
「そうだ。君をすぐに譲位させても、君は院政によって裏から政治を支配するだろう。ならばいっそ、君が引退するまで待てばいいと考えた。私は歳をとり過ぎたが……、息子はまだ幼い。君が老い、退位する頃には、ちょうど成熟した大人になっているだろう。そうなればその先も、私の子や孫たちが帝の座を継いでいくことになる……」
院は霞む視界に抗うように瞬きをした。
「契りが成立すると同時に、勾玉が解除されるよう設定してある。さあ……、私の血を、受け取り給え」
「……選択肢は、無いようですね」
帝は静かに答えると、そっと髪をかき上げて頬を寄せた。院の唇に己の唇を重ね、その口元から流れ出る血液を受け止め、受け入れる。
「……ふ……」院は穏やかに言った。
「思えば……、初めてだったね……。こうして君に、触れる、のは…………」
言葉の端が消えていき、満足げな微笑を残したまま、院はこと切れた。
「……ええ」
サガは沈鬱な面持ちで目を伏せ、ヘルダーリンの瞼をゆっくりと閉ざした。
「……さようなら、叔父上」




