第25話 山羊の悪魔(バフォメット)
「真白雪殿」
不意に呼び止められて振り向く。硝子の樹海の中に幻影が浮かんでいた。見覚えのある顔だ。俺は記憶から呼び名を引っ張り出す。
「滝口入道」
幻影が肯く。緑衣の鬼事件で警察隊と抗争になった折、一度だけ手合わせしたことがある。モルグの上司でもある男だ。心なしか余裕のない表情をしている。
「覚えていてくれて何よりです。この樹海の奥に眠る禁則地での戦い……、廃都決戦以来ですね」
「警察隊のあんたが連絡を寄越すってことは……、俺を別の戦地に動かしたいんだな。王都はどうなってる?」
「御所に獄門院他数名が侵入、帝と元老院数名が人質にとられている状況です。近衛兵の投入により城内は睨み合いの状態……、命運は各所の戦闘結果に委ねられています」
「ならこっちは一先ず白星だ。ザフラフスカは倒した。……カプリチオの屋敷はどうなってる?」
「御所への応援を求め、ちょうど遣いを出しているところですが……、いかがされましたか」
「いや、ちょっとな……。何か分ったら教えてくれ。それで、俺はどこに向かったらいい?」
滝口入道の表情が険しくなる。
「王都西部の城下町を通って、五刑の副将、ラバスティーユが天叢雲剣を護送中です。こちらも八虐・緑衣の鬼を解放し、三種の神器奪取へ向かわせました」
「リリが?」
俺は頓狂な声で聞き返した。
「ええ、しかし彼女もまた一度天叢雲剣を不正使用して投獄された身……、帝のご判断とはいえ、監視が必要です。彼女が我々を裏切った場合、止められるのは貴方しかいない。現在目標地点にはジャミングが掛けられていますが、現地最寄りの街まで転移することはできるはずです。そこから徒歩で駆け付けていただけますか」
「それはかまわない。……だが要らぬ心配かもしれないぜ。リリはもう王都を襲ったりしない」
「それならば良いのです。しかし懸念はもう一つある」
俺は宝珠を背中に担ぎ、長距離転移の構えに入りながら彼の言葉を聞く。滝口入道は緊張の面持ちで続けた。
「ドクターが敵の護衛に敗北するケースです。すなわち、敵が天叢雲剣を使用してきた場合……」
〇
地鳴りと共に谷へと雪崩れ込んでくる街の住人たちは、バフォメットの掛けた催眠によって狂戦士と化していた。王都に次ぐ人口を誇る、城下町最大の都市。秘剣、天叢雲剣の効力によって拡張されたバフォメットの洗脳は、一都市全土を覆いつくしていた。
「キリが無いですねー……」リリの体が雪の上を跳ねる。既に雪山にはいくつもの敗残兵の山が出来ていた。群がる無数の兵を重戦車のように撥ね退けていく。
その拳がバフォメットを見舞う前に、猛烈なGが彼女を地面に釘付けにした。
「危ない、危ない」
バフォメットはからからと笑って後退する。その横で虚ろな瞳をしたラバスティーユが掌を地面に下ろしていた。
「相変わらず躊躇ないね。舌を噛み切る決断の早さもそうだけど」
「使役型の能力者は本人を叩くのがセオリー……。ましてあなたなら躊躇なく殴り倒せますよ、バフォメット」
リリが薄く笑って答える。開いた口から覗く舌は既に完治していた。
「悲しいねえ」バフォメットは答える。雪操作のスコルピオ兵が足元の雪を固め、バフォメットの体を宙に持ち上げた。
「共に十代を過ごした仲じゃないか。懐かしいな、覚えてるかリリパット。私とお前で組んで、大陸で数えきれないほどの悪さをしてきたよなァ」
「あなたとは利害関係が一致していただけです。若気の至りとでも言っておきましょう。しかし、金色夜叉と恐れられたあなたが汎国の忠実な犬になっているとは。歳月は人を変えるものですね」
「お互い様もいいところだな……。さて、旧交を温めたいところだが、お前にはどうもその気が無さそうだからな。後はこいつらに任せるとしよう」
バフォメットの姿が空に溶けるように消えていく。蜃気楼……、住民の中に他のカプリチオがいたか。リリは無数に押し寄せる狂戦士たちを捌きながら分析した。
所詮は非戦闘員の住民だ、倒すのに一撃あれば充分。しかしかえってその非力さが戦いづらさを生んでいた。
「ははっ、手加減しながら戦うのは煩わしいだろう」
中空からバフォメットの声が響く。「お前の実力だ、一撃で仕留められるのは警察隊の精鋭相手でも同じ。一体一体の強さは重要でないんだよ。むしろ鍛えていない一般人相手の方が、繊細な加減を必要とする。本気で殴ったら死んでしまうからな」
「よく分析してますねー。この数年暇だったんですか?」
裏拳で敵を薙ぎ払い、ボウリングのように後ろの兵たちを吹き飛ばしながらリリが返す。しかしその空間をさらに後ろの肉体が埋め尽くしていく。狭い谷合の隙間はあっという間に住民たちの軍団で埋め尽くされ、溢れ出していた。
「実は、お前を汎の将軍としてスカウトするつもりだったんだ。生憎より優れた器が見つかってその計画は流れたが、それでもお前の能力が希少なことに変わりない。折角の機会だ、お前の死体を持って帰って、狂花帯をいただくとするよ。良い宝具を創れそうだ」
「わざわざそのために王都へ?」
「いや、レプリカを残したのは別の宝具を回収するためだ。ニニギニミリという野風に奪われてね。朝廷の宝物庫に流れていたから、院を頼って取り戻させてもらった。あれは大陸系カプリチオ族の家宝だからな」
人波は絶えることなく押し寄せる。微弱ながらも、炎や武具の投擲、電撃に音波が波状攻撃となって襲い掛かる。大した威力ではないが、回避しきれる数ではない。合間に混じって飛び交う警察隊の強力な一撃を見極めて、それだけは確実に躱す。他の攻撃は再生を前提に受け切り、攻撃に集中する。防戦では保たない。攻勢で押し切る。
この谷合の都市全域が洗脳の効果範囲とするならば……、敵の数は大隊数個分、下手を打てば一個師団並だ。距離のある谷の向こうからもまだまだ投入されるだろう。効率的に戦う外ない。
「長い付き合いだ。互いに能力を知り尽くしている。リリパット、お前はたしかに対個人戦最強だ。クロウ殿もクラマノドカもお前には敵わない。だがお前にも不得手とする分野がある」
バフォメットはあたり一面に広がる蟻の軍隊のような光景の中で叫んだ。「継戦能力だ。お前の再生能力は強力だが、体力までリセットされるわけじゃない。他の能力値は化物でも、この数相手に戦い続ければいずれ人並みに力尽きる。クロウやクラマ程の規模の範囲攻撃もない、地道に一人ずつ潰していくのがお前のスタイルだ。お前相手なら、質より数なんだよ」
逃げ……は悪手か、背中を狙われる。リリは後方に飛び退り、空中で鉄の槍を弾きながら考える。夥しい数の民が、谷の奥の奥まで犇いている。完全に包囲されていた。
ぐん、と地面に引き付けられ、リリは腰を落とす。人垣の隙間からラバスティーユの姿が見え隠れする。加重力に動きを鈍らされたリリに、次々と狂戦士たちが覆い重なる。全員にそれぞれ重力が加えられている。
出力の高い斬撃の連弾がリリを襲う。「っ、住民ごと……」血を流し飛び散っていく住民を見ながらリリが顔を歪める。致命傷を負って地面に倒れた住民を助け起こして治癒を施す。
「敵の心配か? ずいぶんと温いことをするじゃないか」
バフォメットがどこからか叫ぶ。
「これでも医者ですからね。救える命は救います」
「無駄だというのに」
石の矢が飛んできて、回復させた兵の頭を撥ねる。リリは奥歯を噛んで鎖を放つ。周囲の兵を振り払った。
「昔から、お前の不殺主義が気に入らなかった」
バフォメットの声が囁く。
「お前は医者だ、助けられなかった命もあるだろう。だが自ら手を汚すことだけは禁じていた。だからお前の実験のために死体を用意してやったのはいつも私だ。私が好きでやっていたことだ。それはかまわない。だがリリ、その矜持もこの状況でいつまで貫ける? お前の信念を折ってみたい! 私の前に跪くお前を見せてくれ!!」
投擲されたメスが、兵の間を縫って警察隊の眼窩を射抜く。精鋭たちは離脱させられた。だが肝心のラバスティーユが捕捉できない。インターバルを置いて常にかかる重力下で、しかも足場の悪い雪の上で戦い続けるのは、体力を消耗する重労働だった。しかもその間に無数の攻撃を浴びることになり、絶えず再生を行わなければならない。他人を治癒する時ほどではないが、大幅な再生は体力を削られる。加えて骸を薪にした炎の煙……、熱さと酸欠で息が上がる。
玉のような汗を流しながら、拳を振り降ろす。衝撃で吹き飛ぶ兵たちの間から、典獄の姿を視認した。「……! 捉えた……」手を伸ばしたリリの腕を、振動剣の一太刀が斬り落とした。




