プロローグ 春嵐は馬車に乗って
白玉か何ぞと人の問ひしとき 露と答へて消えなましものを
――――『伊勢物語』
雪道に降り積もった薄紅の花びらたちが、駆け抜ける馬車の起こした風で舞う。既に日は高く昇り、桜の下に敷き詰められた粉雪も雫へと変わりつつあった。満開の桜と淡雪の混色を視界に収める余裕も無く鞭を振るう御者を、木の上から眺める人影があった。
「間に合うかしら」
幌の間から空を透かして見た紅髪の少女が、太陽の位置を気にして言った。馬車の振動に合わせて、耳に付けた緑の宝石が揺れる。
「どうだろうな」
少女のショッキング・ピンクの瞳が、再び暗い幌の中に移る。目の前には、退屈そうに腕を組んだ金髪の男が座っている。どうだろうでは困りますわ。アテネ=ド・カプリチオは父の言葉に口を尖らせた。
「仕方ないだろう。医者の話では一昨日が峠のはずだったんだ。御当主が息を引き取るのがあと一日早ければ、今日の元老院会議にも余裕を持って……」
「そんな言い方はしないでください、お父様」アテネは口をため息交じりにまた窓の外を見る。「……お祖母様、大往生でしたわね」
「お義母様もご高齢だったからな。よく保った方だ」
アテネの父、サテュロス=ド・カプリチオは、真剣な目つきになって言う。「葬儀が済んだら、跡目争いが始まる。同家の人間が当主を務めるのは、三代まで。カプリチオ族の伝統に則って、次代の当主家は一族の皆の投票によって決められる。若手のお前の働き次第で、我々卿家が当主家を継続できるかが決まるんだ。しっかり頼むぞ」
「……ええ」
アテネは緊張した面持ちで答える。とりわけ今日の議題は重要だった。海中監獄に囚われていた重要政治犯の釈放が、その争点となっていた。
「ところで、四季家の若いのもアテネと同じ歳だったな」サテュロスが思い出したように言う。「久々の顔合わせだな、お前の幼、な……っ」
衝撃が言葉を遮る。
サテュロスの声が、馬車の中で半回転する。アテネの視線の先で空が地面に変わり、衝撃が横転した馬車を襲った。
短い崖を馬車が滑り落ちていく。土煙が辺りを覆った。
「なんだ、落石か何かか……?」
難儀そうな声を出して、サテュロスが幌の下から這い出る。「無事か? アテネ」
「ええ、どうにか、お父様……」
アテネが馬車の中から、呻き混じりに答える。幌がクッションの代わりを果たしていた。御者は倒れた馬の下敷きになって、気絶している。父親はアテネを引っ張り出し、それから険しい顔であたりを見渡す。
「弱ったな、麓までかなり歩くぞ。酷い事故に巻き込まれたものだ……」
「事故ではない」
頭上から、声が降ってくる。二人は崖の上を見上げる。数メートル先で、武装した集団が見下ろしている。装備が上等だ、野盗の類ではない、とアテネは判断した。サテュロスが抗議するように声を上げる。
「俺たちはカプリチオ族の貴族だ。我々に手を出せば朝廷が黙っていない」
「それを聞いて安心した。狙う馬車を間違えたのでないとな」
中央の白い猿族の男が腕を振る。10数人の兵がいっせいに崖を駆け下りる。洗練された動き、サテュロスの伸ばした手を掻い潜り、距離をとる。袖から伸ばした根が二人を絡めとった。
「相手は催眠使いのカプリチオだ。間合いに入るなよ」
着地した兵の側に下りてきて、白髪の兵が肩を叩く。
「使い魔を呼ばれても面倒だ。念のため気絶させておけ」
別の兵が応じる。両手をすり合わせた隙間から、青い電流がバチバチと迸る。ライブラ族の電撃……、アテネはピンクの瞳で敵を睨みつけながら考える。動きからして、おそらく全員が練磨された能力の持ち主、逃げる隙が無い。
「悪いな、高貴なお方々。ちょっとだけ痺れますよ」
「その静電気でか?」
ライブラ兵の体がぐるりと回転する。地面に激しく後頭部を打ち付け、白目を剥いて気絶する。何処からともなく現れた一人の青年が、兵隊を投げ飛ばした手をぶらぶらと下ろした。
アテネは顔を上げた。見知った大きな背中がそこにはあった。朱い金属製の棒を肩に担ぎ、頭にはめた箍が、毛先の白い金の髪を抑えている。
「空間転移……っ」白髪の野風が唸るように叫ぶ。「如意宝珠に白混じりの金髪……、貴様が……真白雪かッ!!」
「そういうお前は誰だよ?」
問い返す青年に向かって、敵兵が一斉に突撃してくる。青年は朱色の金属製の棒を器用に回転させ、伸びてくる鞭を払い、電撃を掻き消した。気配を消して背後に回り込んだ敵兵が、握ったナイフごと吹き飛ぶ。唐突に伸長した棒の一撃を喰らって、さらに二人の兵が昏倒した。
金属音がして火花が散る。棒撃を掻い潜った白髪の攻撃が、青年の前で止まっていた。赤棒を盾にした青年が白毛の拳から突き出た鉤爪を眺める。
「ここらじゃ見ない顔だな。白い毛並みの野風……、都や東国では見たことないぜ。魔境の猿族は大概知り合いのはずなんだが」
爪を弾く。左手から繰り出される敵の拳を交わし、肩を入れて体当たりで突き飛ばす。白髪が後方に飛び退る。
「いいや、白い野風……、お前は知っているはずだ。一匹だけな」
ましらの姿が消える。と同時に敵軍の中に突然現れ、朱棒の乱回転で周囲の全員を薙ぎ倒した。
地面に転がった味方の兵たちを眺めて、野風の男が舌打ちをする。
「会議まであまり時間が無いんだ。お前たちをとっ掴まえて警察隊に突き出したいところだけど、そこに伸びてる二人だけで勘弁しといてやるよ。こう人数がいちゃ運べないからな」
ましらは先の棒撃で気絶させた二人の兵を指して言った。「……で、俺が誰を知ってるって?」
「ふん、我が身をよく思い返してみるんだな。お前の知る唯一の白い野風……、それはお前自身だ、半獣人のましら。野風の姿を借りていた頃のな……」
白い野風が殺気を強める。兵の一人が耳打ちする。
「隊長、準備完了です。目的は達しました、ここは撤退を……」
白髪は部下の手を振り払い肩を怒らせる。しかし一歩足を踏み出したところで体を震わせ、気を落ち着かせるように大きく息を吐いた。
遠くから煙があがる。敵兵たちはそちらの方角へ向かってぞろぞろと退散していった。白い野風はこちらを口惜しそうに一瞥する。「ここはお前の提案に乗じて引下るとしよう。心配せずともまた会いに来てやるぜ、真白雪」狼煙の方角へ踵を返しつつ、彼は吐き捨てるように言い残す。「お前ら『人猿』は皆己の獲物だからな。この『白鵺』の父の細胞を、お前らの誰かが持っているうちは……」
「……?」
戸惑いを浮かべたましらを残して、白い影が崖の上に消える。「あっ、おい待て……」ましらは踏み出しかけてまた訝し気に立ち止まる。
騒ぎの内に縄を抜け出してきたアテネが、彼の顔を覗き込んだ。「……追わないの?」
「いや、空間移動で追いかけようとしたんだが……、失敗した。座標の認知が乱される」ましらは遠くの煙を見上げた。「あの煙が上がってからだ」
「……おそらく妨害系の宝具ね。ましらが援けにくる可能性まで想定していたのかしら」
アテネは破損した馬車に目を戻す。
「なら敵の狙いは、初めから私達の進路妨害と時間稼ぎ。目的は、元老院会議への横槍……。やられたわね」
「……やられたな」
冬の湖のように静まり返った議場を眺めて、帝は頬杖をついて呟く。
「反帝派の仕業?」薄っすらと空色の混じる銀髪を揺らして、アリエスタ族の当主ネヴァモア=アリエスタが、帝を見上げ問う。少女のような瞳が、がらんどうの議席を写す。
議場には、彼女と帝の2人きりだった。
「欠席は0.5票分の賛成票扱い……。そして今、私以外の全員が欠席。強制的に、この議題は通る」
「仮に私が皇帝権限でそれを弾いたとしても、次の議会で同じ事を繰り返すだけ……。認可せざるをえない。勝負をかけてきたな、反帝派の皇族共」
帝は議場の高い天井を見上げて嘆息した。「戻ってくるか……、伯父上。いや……、先代皇帝、獄門院」