第16話 開幕
ガシャンと牢の空く鉄音が、朝まだきの地下に響く。ユードラは堅い地面に横になったままぱちりと目を開き、視線だけを鉄格子に向けた。ショートカットの乳白色の髪の女が、2人の番号を呼びあげる。「京の代理として参りました。院の皇族権限によりあなた方を釈放します」
「やれやれ、やっとだよ」
「むー、まだ早いの」
寝ぼけ眼でミーグルが起き上がる。それからまたごろりと倒れ込んだ。「二度寝するの」
「ちょっと、起きて出てください!」
ヴァニラが困ったように咎める。
「ミーグルの朝は遅いんだよ、ヴァニラちゃん。ところで、私のペットがどこにいるか知らない?」
ユードラが慣れた様子で言う。ヴァニラが不満げな様子で天井を指さす。
「上の階層の雑居房を占有していますよ。貴方の指示しか受け付けないので、出そうにも出せません。早いとこ誘導してください」
「はいはい。それで……、次の命令は?」
「あなた方の本命ですよ。カプリチオを落とします」
〇
波が船の縁にあたって砕ける音が、心地よく響く。
細いパイプの先に詰めた薬草が蒼く燻り、煙がゆっくりと肺を満たした。磯混じりの空気に薫りを吐き出して、モルグは水平線の日の出を眺める。
「良いモン吸ってんじゃねえか」
甲板を踏む音がして振り返る。ユーメルヴィルがやつれた顔で歩いてきたところだった。
「ユーメルヴィルさん。早いですね」
「寝てないんだよ。この揺れのせいでな」げんなりした顔でユーメルヴィルが答える。
「もしかして船は初めてですか? 船酔いするなら言ってくださいよ」
モルグはパイプを差し出して言う。ユーメルヴィルが頭をガシガシと掻く。
「ましらに禁箍を借りとくんだったな……。山育ちの野風は海に縁が無いんだ。『渡罪』ならともかくな。……それは?」
「酔い止めの香草ですよ。喫むと頭がすっきりします」
「なんだ、そんなもんが有るなら先に教えろよ。こっちは夜通し回転する天井と闘ってたんだ」
「ユーメルヴィルさんこそ早く言ってください」
老人のような顔で煙を吸い込むユーメルヴィルを見ながら、モルグが抗議する。
「……ところで、ワダツミというのは?」
「ん?」
「さっき言ってたでしょう、ワダツミならどうのって……」
「おう。なんだ、知らんのか」
ユーメルヴィルはぱちぱちとはじける煙と共に言った。
「猿族にはいくつかの近縁種族、亜種が存在するんだ。代表的なのは、樹上生活に特化した俺たち『野風』、氷雪地帯に生息する『大疋』、そして水棲生物の側面を持っている、さっき言った『渡罪』だな。まあ野風以外、生息地帯も限られてるし数も少ないから、王都の人間が知らないのも無理はないか」
「水棲生物ってつまり、海の中に住んでるんですか?」
「ああ。奴ら鯨や肺魚なんぞと同じように肺活量がとんでもないんだ。半日は潜っていられる。生活の大半を水中ですごすんだ。南の島の大部分は水没してるからな、その方が都合良いんだろ」
海面を見つめながらユーメルヴィルが語る。
「南には中つ國所有の猿族部隊があると聞いていましたが、その渡罪がそうというわけですか」
「そういうことだ。渡罪はとにかく戦闘要員の割合が高い種族だから、東国の野風聯隊以上の規模がある。水軍としては国内随一だよ。西国が中つ國の本軍と呼ばれてる理由の一つだな」
「数だけではない。渡罪は『野性』を磨く訓練が体系化されている。一人一人の質も高いぞ」
背後の声に振り返ると、朝日に眩しそうに目を細めたカミラタが、デッキに現れたところだった。隊長へ挨拶をしたモルグが質問を重ねる。
「カミラタ隊長、その『野性』とは?」
「猿族や野生動物に特有の本能的直感能力のことだ。簡単に言えば『野生の勘』だな」
「習得すると、危険感知能力や反射速度が飛躍的に向上するんだ。猿族には多かれ少なかれ備わってる力なんだが、訓練しないと鈍い状態のままでね。俺も扱えるようになったのはここ半年くらいだ」
「なるほど、なら俺も……」モルグが考え込むようにぼそりと呟く。
「残念ながら現代のヒト族には備わっていない。旧世界の人間には、稀に持っている者もいたと伝えられているが、今の我々は疾うに失ってしまった」
カミラタがかぶりを振った。
「なあ、ところで気になってたんだが、島にはまだ着かないのか? 地図によりゃ、もう見えてきてもおかしくないはずだよな」
ユーメルヴィルがパイプをモルグに返しながら口を挟んだ。
「たしかに、事前に伝えられていた行程表より遅れていますね」
モルグも奇妙だという風に同意する。ユーメルヴィルが太陽の位置を確かめるようにちらりと視線を走らせた。何か言いたげな表情だ。「ふむ」カミラタが少し考えるように顎に触れた。
「ユーメルヴィルは隊員ではないしな、早めに同意をとっておいた方が良いだろう」
「……? 訓練の同行についてはサインしてるぞ?」
「いや、そうではない。合同演習というのは建前だ。今回部隊を集めたのは、真の目的があってのことだ」
「真の目的……?」
モルグが緊張した面持ちで尋ねた。カミラタが肯く。
「ああ。我々が向かっているのは島ではない。西国の祇園だ。我々は帝の命により、これより京の宮を攻め落としにかかる。院を追討するために」
〇
やたらと深い眠りから覚めて、俺はぱちりと目を覚ました。最近では珍しいくらい、やけに快眠だった。寝ている間に地震やぼや騒ぎが起こっていても、多分気付かなかっただろう。……アテネが気を遣って、何かしてくれたのだろうか。
部屋の中がやけに寒い。俺ははっとして窓を振り返った。割れた窓ガラスが散乱し、カーテンをはためかせて風が吹き込んでいる。床には小さな泥の足跡が点々と付いていて、ベッドの側で揉み合った形跡がある。
俺は慌てて部屋を飛び出した。アテネの部屋をノックして開けるが、中には誰もいない。俺は事態を察した。明け方に押し入った侵入者の気配に気づいたのだろう、俺の部屋を訪れたアテネが侵入者を目撃し、そのまま連れ去られたのだ。俺の部屋は二階だが、一階の雨樋や軒を伝えば人間でも上ってくることはできる。
「落ち着け、まずはカプリチオの屋敷に……」
瞬間、遥か上空に爆音が響いた。振り返ると、西の空を昼日中の流星のように驀進していく物体が彼方に光っていた。
「くそっ! 何が起きてるんだ……⁉」
俺は驚愕して叫ぶ。遠くに小さく見えただけだ。だがあの軌道、形状……。俺は嫌な予感に身をわななかせた。それはまるで核のような見た目だったからだ。