第15話 露のあとさき
予想外の言葉に、一瞬体が固まる。アテネの顔が目の前に現れる。息詰まるような数秒間。唇が近づく。瞳が合った。両目から続いた涙の跡を見て、俺は反射的に彼女の肩を掴み起き上がった。
「ましら……」
「落としたよ、アテネ」俺はポーチに落ちた外套を拾い上げて土を払い、もういちどアテネに着せかけた。「君は混乱してるんだ。まずは熱いシャワーでも浴びて落ち着いて」俺は彼女の肩を陽気に叩くと、目を逸らし、背を向けるように立ち上がった。「抱きしめてほしいくらい凍えてたんだろ? すぐに準備するから待っててな」
「……うん。そうね」後ろでアテネが答えるのが聞こえた。どんな顔で話しているのか、手に取るように分かるのが辛かった。俺は鍵を回した。
無人の部屋に、シャワーの音が微かに反響する。俺は浴室の戸をノックして言った。小さく反応がある。「あ……、タオルと着替え、ここ置いとくから」
返事を聞いて俺はリビングに引き返した。付けたばかりの暖炉の炎がぱちぱちと爆ぜる。ソファに腰掛け、俺は顔を両手で覆い、深い溜息を洩らした。
「混乱してる」なんて見え透いた言い訳だ。……いや、たしかにアテネも混乱自体はしていたろう。彼女の身に良からぬことがあったのは分かる。投げやりで勢いに任せた言動だったことも。
だが、彼女の瞳は真剣だった。重ねた胸から伝わってくる鼓動の速さも、その吐息が帯びた熱も本気のそれだった。
出会った時の彼女はまだ14歳だった。少しずつ成長する様子を隣で見てきたけれど、まだまだ子供だと思っていた。だが彼女の身体を抱き止めた時、俺はもう彼女は大人なんだということを痛感せざるを得なかった。だからこそ動揺も大きい。
「抱いてよ」、なんて。
俺は指の隙間から重たく眼を開く。その言葉が単に「抱きしめてほしい」という意味でないことくらい、さすがに分かる。
俺は手を伸ばし、炎に薪をくべる。アテネから好意を向けられていることは、薄々気づいてはいた。でもそれは身近な大人への憧れのようなもので、成長すれば自然と卒業するものだと思っていた。……いや、思いたかっただけかもしれない。この幸福な関係が壊れてしまわないように、兄のような距離で彼女と接することで、二人の絆を保とうとしていた。でもそれは、彼女を一人の大人として認め向き合うことを、避ける結果になっていたのかもしれない。
「……駄目な大人だな、俺は」
炎を見つめて、呟いた。
足音が近づいてきた。振り返ると、サイズの合わない俺のシャツを着たアテネが、濡れた髪を拭きながら歩いてきたところだった。上気した頬はさっきよりも血色良くなっていた。
「シャワー、ありがとう。少し……落ち着いたわ」
「あ、ああ。暖炉にあたると良い。まだ髪も濡れてるだろ」
こくんと肯いて彼女は長椅子に腰掛けた。大きめのクッション一つ分隔てたソファの両脇に、並んで座っている。気まずい距離だ。
「あの……、さっきはごめんなさい。私、どうかしてたわ」
「いや、いいんだ。謝る必要ない。俺の方こそ、君を傷つけたかも」
ふるふるとアテネは首を振った。俺はおずおずと彼女の横顔に話しかけた。「……何かあったのか?」
「……、父に……、襲われたの。どうにか逃げられたけど」アテネはぽつりと答えた。「女好きだと気づいてはいたけど、気さくで、優しい父親だと思っていた。全部嘘だったのね。私のこと、娘として見ていなかったみたい」
強がるように苦笑して見せる。「おかしな話よね、こんなお子様のどこが良いんだか」
「……それは違うよ、アテネ。君は充分魅力的だ。一人の大人の女性としてね」俺は躊躇いがちに言う。「……お父さんのことは、ひどくショックだと思う。気持ちを整理するのに時間がかかるだろう。好きなだけここに居てくれていい。帰りたくなかったら、帰らなくても良いんだ。ここで不都合なら、東国の野風たちの所や、メルの居る寄宿舎に行くこともできる。俺も皆も、君を大事だと思ってるから」
「……うん、ありがとう……。……でもやっぱり私、明日には屋敷に戻るわ。一族の重要な日なの。お母さまをがっかりさせたくないから」
「平気か?」俺は気遣わしく彼女を見つめた。「無理しなくていいんだぞ」
「大丈夫。アマルもいるし……、落ち着いたらお母さまにも打ち明けるわ。さすがのお父さまも、少しは懲りただろうし。……自分の力で、何とかしてみせる」
俺は心配を視線に乗せて言った。「辛かったら、いつでも力になる」
暖炉の火で髪を乾かし、俺は彼女の長い髪を梳いた。「髪……、伸びてきたな」
俺はソファの後ろに立って手を丁寧に運びながら、言う。頭をこちらに預け、くつろいだように座ったまま彼女が答える。「そうね。最近また伸びるのが早いわ。成長期かしら」
「背も大きくなったよな。もうすぐ俺の肩に届きそうだ。昔はあんなにちっちゃかったのに」
「昔と言っても、二年前だわ。それにそんなに小さくなかったわよ」
アテネが唇を尖らせ、そして微笑む。「でも、嬉しい。私のことちゃんと見てくれて」
俺は彼女の頭を撫でるようにそっと櫛を下ろす。「……ねえ、アテネ。俺は君のことを家族のように大切に思っているよ。この先俺たちの関係が変わったとしても、それだけは忘れないでほしいんだ」
「……ええ、ましら」
アテネが俺の名前を呼んで答える。柔らかな声で、少し寂しそうに。「私もあなたを想ってるわ」
〇
床についたましらが眠りにつく気配を確かめると、アテネはあてがわれた部屋の簡易ベッドを抜け出した。つま先立ちで足音を消しながら、そっとましらの部屋の戸を開く。
規則正しい寝息が、微かに聞こえる。あまり安らかとも言えないような寝顔を、カーテンの隙間から差し込んだ淡い月明りが、照らしていた。アテネは屈みこみ、その額にそっと口づけをすると、彼の頭を優しく撫でて、深い眠りにつくように暗示をかけた。
彼がしばらくは目を覚まさないことを確かめ、彼女はましらのベッドの中に潜り込んだ。それ以上何をするでもなく、ただ彼の胸の鼓動と体温を感じながら、アテネは幸福な眠りについた。