第14話 夜
外は霧雨だった。春を待つ温かな夜の雲から落ちる晩冬の水滴は冷たく、気の早い桜の花を散らすには十分だった。
俺は暗い回廊の内側へ足を踏み込んだ。黒煉瓦の床に響く足音で、リリが目覚める。眠そうな目をこすって、身を起こした。
「んー……、どうしたんですか、ましら君。こんな夜更けに……」
天井から漏れる月光めいた明かりを見る。「夜更け……ですよね? 多分。昼夜の別がないから感覚が狂うんですよね」
「悪い、起こすつもりはなかったんだ。ただ色々考えてたら寝付けなくて、リリの顔が見たくて」
泥まみれの俺の靴を見て、リリは身体を起こした。それからぽんぽんと壁際に置かれた布団の隣を示した。
「……雨の匂いがしますね」
リリが俺の少し濡れた髪を抱き寄せて言う。俺は彼女の隣に座ったまま、彼女の肩に頭を預けた。
「すまない、こんな真夜中に……」
「良いんですよー。何かあったんでしょう? 悩んでるなら話してください」
リリがそっと頭を撫でる。俺は目を閉じてしばらく時を感じて、それからぽつぽつと言葉を落とした。
「獄門院に……、言われたんだ。京の軍勢に付けって。そうすれば君をここから解放する、そういう条件のもとに」
「それは魅力的な話ですねー」
「うん。でも、多分それをやれば戦争になる。王都の戦力は低下してるし、これ以上西側に兵が流れたら、院は行動に出るだろう」俺は床を見つめながら続けた。
「野風には手を出さないと約束してくれた。でもどちらが勝ってもきっと、彼らの立場はまずいことになる。帝が勝てば、裏切った長の罪を彼らがかぶることになるし、院が勝っても、市民権を得たばかりの野風をどう処遇するか分からない。院は古い世代の人間だ。後ろについてる反帝派の皇族も、今の野風の厚遇に不満を持ってるやつばかり。俺が院につけば、野風への風当たりが強くなることは間違いない。それにアテネや警察隊の皆を……、俺は裏切ることになる」
唇を噛む。堰き止めていなければ、不甲斐ない思いがあふれ出てきてしまいそうだった。
「こんなことを君に言っても、困らせるだけだって分かってるんだ。でも俺は、何を選べばいいか……」
「大丈夫ですよ、ましら君」リリは俺の頭を引き寄せ、そっと胸に抱いた。「どんな選択をしたとしても、私はましら君の味方になります。私のことを見つめてくれるのは嬉しい。でもそのせいで、ましら君が大切な何かを見落としてしまうのだとしたら、それは憂うべきことです。私の心配は、それだけ」
「リリ……」
俺は彼女の心臓の鼓動を感じる。髪を梳かす指先と、頬に感じる体温が心の靄を薄めていくようだった。
俺は目を開けて身を起こした。
「ありがとう、勇気づけられたよ。納得が行くまで、もう少しだけ考えてみる」
〇
街路には誰もいない。夜半はとっくに過ぎていた。さすがに朝焼けは始まっていないが、もう数時間で山が白み始めるだろうという予感があった。
俺はしとしとと降る雨の中を走った。靴がすっかり濡れてしまっていて、そのまま部屋に転移するわけにもいかなかった。家のすぐ近くに飛んで、表から入るつもりだった。
玄関のポーチが見えた所で、俺は立ち止まる。軒下に膝を抱えるようにして、紅い髪の少女がうずくまっている。「……アテネ?」
彼女が面を上げた。髪は乱れ、目は泣きはらしたように赤い。俺を見て、それから寂しそうに笑った。
「良かったわ。あなたも朝帰りかと思った」
「一晩中待ってたのか? ユーメルヴィルは……、……そうか、遠征中だったな……」
俺は傍に駆け寄ってしゃがみ込んだ。ボタンの外れたシャツの襟は乱れ、袖からぽつぽつと水滴が滴っている。この気温だと言うのに外套も羽織らず、小刻みに体を震わせている。俺は上着を着せかけた。「何があった……? …………いや、言えるかぎりでいい。とりあえず中へ入ろう。お湯を沸かすから」
俺は彼女の手をとって立ち上がろうとした。不意にアテネが重心を傾けるようにもたれかかってきて、俺は押し倒される形でポーチに背中を着いた。
「ねえ、ましら」彼女は微かに震える喉で囁いた。「上書きして」
体を重ね合わせるように抱きつく。その上着がするりと床に落ちて音を立てた。どこか捨て鉢な口調でアテネは言った。「抱いてよ……、お願い」