第13話 夜這い
草木も静まり虫の音だけが聞こえる祇園の宮の屋根裏を、眠りこけた鼠を跨ぐように影が通る。外部からの侵入を防ぐように張られた鉄の網に身を寄せた彼女は、実体を持たぬ黒影のようにするりと壁を透過してみせた。軋む柱も鈴虫の眠り歌も、彼女の体を包む静寂を破ることは適わない。一寸先も分からぬ闇の中に、幾筋も光の柱が立ち並んでいる。天井に空いた隙間や穴から、階下の灯りが漏れているのだ。ユダは足元に開いた穴から、静かに部屋の中を覗き見た。
行燈の薄明かりが揺らめいている。火鉢は消したばかりのように燻っていて、まだ灰が少し赤い。上等な布地を織り込んだ布団を、深く規則正しい呼吸が上下させている。……獄門院だ。
ユダは絹を裂くように刀を通し、天板をくりぬいた。音もなく着地。標的の寝首に刃を傾ける。朧な燈火を反射する刀身には、いささかの殺意も滲んでいない。彼女は躊躇いも逡巡もなく、淡々と脇差しを掲げた。
「私なら止めておくがね」
襖の奥から声がした。「……!」彼女は脇差しを握ったまま振り返った。すうっと襖が開いて黒い烏帽子が現れる。脳裏に刻んだ標的の顔。すぐに、凶刃の下にある獲物が彼でないことに気付く。
「……替え玉か」
舌打ちした彼女の腕を、布団から飛び出した手が掴む。反射的にユダは刀を払った。……が、刃の切れ味を超える手応えの無さだけが手に伝わった。むなしく空を漂う刀を、敵の腕が押さえつける。
「ザフラフスカ、丁重に扱いなさい。彼女は王都からの賓客だよ」
獄門院が悠然と窘める。無言で肯く気配があり、ユダを組み伏せる手の圧力が少しだけ弱まった。首を捩じって、自分に馬乗りになった男の顔を見る。溜息をついた。『死刑』のザフラフスカ……。五刑の頂点にして西の最高戦力だ。
「呆れたっすね、自分の替え玉に元八虐を使うなんて」
「人死にの出ない方法をとったまでだよ。生中な身代わりでは、刺客の刃は防げないからね」
頬杖をついて院がユダを眺めた。「そろそろ来る頃だと思っていたよ。帝のやり方や手駒は、獄中で散々研究した。彼女の手筋は読める」
「見かけによらず粘着質なんすね。しつこい男は嫌われるっすよ」
ザフラフスカに手を捻られてユダは呻いた。「あいたた……」
「ザフラ」飼い犬を叱るように、優しく院が諫めた。「……さて、暗殺者さん。命知らずな君の名前を聞いてもいいかな」
「聞いてどうするんすか?」
「覚えておきたいんだ。敵であれ、打ち首にしてきた人間の顔と名前はちゃんと記憶してる。彼らの命に対して、責任を持ちたいからね」
少しだけ表情を曇らせて、院が答えた。睨みつけるようにしてユダが答える。「……ヘルダーリン」
狐につままれたような表情が院の顔に浮かぶ。それからふっと口元を緩ませて、苦い顔をして笑った。
「何かおかしなことでも?」
「いや、失敬。手を読まれていたのは此方の方かと思ってね。さすがはサガ、我が姪だ。こうして刺客が捕らえられることまで計算の上か」
「……?」
事情を呑み込めないようなユダの表情を見て、院は小さく微笑んだ。「『ヘルダーリン』は私の名だ」
慌てたような気配が背の上から伝わってきた。大丈夫だという風に院はザフラフスカに手を挙げる。ユダもまた困惑していた。皇族が下層民に真名を明かすなど、考えられないことだった。
「ヘルダーリン、暗殺者君。帝は君を失敗前提の捨て駒にしたんだよ。たかが真名ひとつの意趣返しのためにね。私を決して『上』とは認めないという、意思表示のつもりなんだろう。まったく気の強い姪だね」
「んな、ことのために」
ユダは奥歯を強く噛み締める。真名を曝すというささやかな侮辱的行為。そんな皇族同士のつまらぬ誇示の道具に自分は使われたのだ。
彼女の口惜しさに憐れを注ぐように膝を付き、院はユダの頬に触れた。「可哀想な女の子だ……。君は一夜にしてここまで辿り着いた、稀有な人材だというのに。私なら君にこんな粗末な仕事を押し付けたりしない」
「……院……」
「ああ、どうかヘルダーリンと呼んでくれたまえ。近しい部下には真名を呼ばせてるんだ。……君もこれ以上偽りの名を騙る必要は無い。本当の名前を、私に教えてくれないか」
院は掌を噛み、血のにじんだ手をそっと差しだした。ザフラフスカが背中から離れ、立ち上がる。
「…………。……ユダ」
彼女は血印渦巻く院の手をとった。「良い子だ、ユダ」ヘルダーリンがにっこりと微笑んだ。
〇
深夜。屋敷そのものが休息するかのような静かな空気を僅かに揺らして、サテュロスは玄関をくぐった。見つかると面倒なので、家人を起こさないようにそっと書斎へと向かう。寝室は妻と同じだったが、女の香水の匂いが付いたままなので一度自室に引き上げ、匂いを上書きしてから戻る。紳士のマナーだ。
自室の扉を静かに開ける。荒れた引き出しや書棚が目に入って立ち止まる。すわ泥棒でも入ったかと驚き、慎重に部屋を見渡す。
「遅かったですわね、お父様」
部屋の中から声がして、サテュロスは飛び上がらんばかりに驚いた。それから声の主が目に入って、彼は息をついた。
「なんだアテネか。よしてくれよ、こんな悪戯は」
胸を撫でおろし、後ろ手に扉を閉めた。こんな悪戯をしてくるのは珍しい。アテネは大人しく利発な子で、悪ふざけをしてくるような子ではなかった。もっとも幼少の頃から、あの母親に躾けられていたからでもあるだろう。
「こんな夜更けまで帰らないなんて、よほど魅力的な女性と逢っていらしたんでしょうね」
棘を含んだアテネの言葉に、サテュロスは再度驚いた。アテネが自分の女関係について口出ししてきたのは初めてだった。勘付いている素振はあったが、見て見ぬふりをするのが彼女の常だった。
「どうしたんだアテネ。今日のお前はちょっと変だぞ」
「私はいたって正常ですわ。むしろお父様の正気を疑っているくらいです。……この手紙はなんですか」
娘の手に掲げられた文を見て、サテュロスは言葉を失った。存在すら忘れていたが、便箋と筆跡を見て直ぐに思い出した。それは十年も前に去った使用人の残した手紙だった。一度は愛した女、別れの手紙くらいはと抽斗の奥にしまったままにしておいた。忘れてしまいたい苦い思い出だ。
「……読んだのか」
「読んだだけではありません。その娘たちから直接に話を聞きました。ユードラとミーグルです」アテネは顔を顰めた。「正気ですか、お父様。考えたくもありませんでしたが、彼女たちと私の生まれ月を計算すると、どう考えても貴方は母様が身籠っている間に他の女性に手を出していたことになる。それも手紙によれば、一度や二度ではなかった。あまつさえ貴方から言い寄ったと言うではありませんか。お父様の色好みは存じているつもりでしたが、お母様とは恋愛結婚なさったはずでしょう? なぜこんなことをしたのです」
「なぜ、と言われてもね」
サテュロスはソファのひじ掛けに腰を下ろして溜息をついた。「ダビィ……、お前のお母さんとは、確かに愛し合っていたよ。でも所帯を持つつもりはなかった。お前がダビィの腹に出来たものだから、結婚せざるをえなくなったんだ。俺は庶民の家の子で、ダビィはこの卿家の一人娘だった。御両親は良い顔をしなかったが、ダビィも当時成人したばかりで、さすがに責任をとらないわけにはいかなかったんだ。それに領主様の御意向とあっては、とても逆らえないからな。結局ダビィに押し切られる形で結婚する羽目になった」
「……っ。それが娘に語る話ですか」
「えっ? ……ああ、そうだな。ごめんな、お父さんそういうのよく分からないんだ」
サテュロスはあっけらかんと答えた。アテネは呆れたように溜息をついた。「……もういいです。ユードラとミーグルが妹ということは本当なんですね」
「ああ」
「……なら、彼女たちを引き取りましょう。今回の一件、被害者は身内だけですし、彼らにきちんと謝罪をして事情を説明した上で保釈金を払えば、出してもらえるはずです」
「なぜ、そんなことをする?」
「なぜって……、あなたの娘でしょう? 家族じゃありませんか」
「あー……」
サテュロスは大儀そうに言って、息をつく。徐にパイプを懐から取り出し、火を付けた。「……父さんの家の男は、代々好色でなぁ」
「……?」
アテネが眉をひそめ、発言の意図を探るような顔をする。サテュロスはかまわず続けた。
「俺のお袋は父さんが小さい頃に亡くなったんだが、親父が駄目な男でね。ろくに働きもせず、俺を連れて女の家を転々として暮らしてた。どうしようも無い男でね、だが女にはモテた。親父のことは嫌いだったが、そういう人を惹きつける魅力だけは尊敬してたんだ」
「それは……、言い訳のつもりですか?」
アテネが咎めるように詰め寄る。サテュロスは無視して、ひじ掛けに座ったまま煙草の煙を吐いた。
「……お袋はいなかったけど、不思議と母性に餓えるみたいなことはなかった。多分物心つく前にたくさん愛されてたんだろうな。でも記憶には無かったから、母親ってものがよく理解できなかった。親父が転がりこむ家の女は、あくまで女であって母親ではなかったからな」
「だから、それがどういう……」
「まだ分からねえかなあ!」サテュロスが突然声を張り上げる。アテネの肩がびくりと震え、床に落ちたパイプがごとりと音を立てて弾んだ。
「俺さぁ、家族の愛情とか分かんねえんだわ。女としてしか愛せねえの」
固まったアテネの手首に父親の手が伸びてきて、勢いよく引き寄せた。わけも分からないままにソファに押し倒される。
「知ってるか? お前の母さん、未だに俺の前では化粧を落とさないんだ。自分が歳をとって見限られるのを恐れてる。いい年して馬鹿みたいだよな。……その点アテネは綺麗だよ。若い頃の母さんそっくりだ」
「何を……っ、何を言ってるのですか、お父様、冗談はよして」
サテュロスの逞しい腕の下でアテネがもがく。
「冗談じゃねえって。なあアテネ、お父さんお前にずっと優しくしてきたろ? お前が家を出た時も反対しなかったし、嫌なことや悲しいことがあった時は忘れさせてやったじゃないか」
「っ? 何の話……、それに私は、好きで家を出たわけじゃっ」
「あー、忘れたことまで忘れてんのか。お父さんの記憶操作、ちょっと優秀すぎたかなあ」
サテュロスが顔を近づける。荒い息が首筋に掛かって、全身が総毛立つのを感じた。アテネは自分の身に何が起こりかけているのかを理解して、激しく身をよじった。
「暴れんなって、父さん催眠は苦手なんだから。でも記憶消すのは得意だからさあ、一度くらいいいだろ。どうせ明日には覚えてねえんだし」
「止めて!! 離してっ!!」
「ガキが男の力に適うわけねえだろ! アテネさあ、成人してから急に大人っぽくなったじゃん。すっかり女の身体になって、化粧なんか覚えてさ……。好きな男でもできた? お父さん嫉妬しちゃうなぁ!」
無理矢理服を剥ぎ取る。アテネは激しく抵抗するが両腕を片手で容易く押さえつけられる。「嫌っ!! ぁああっ!!!」「あんま叫ぶなよ、ダビィが起きちまうだろうが……。優しくしてあげるからさ、あんまりパパを困らせるなよ。ほらこんなにイライラしてる」
サテュロスの熱い息の下で彼がベルトを外すのを見て、アテネは恐怖に顔を歪めた。必死に身悶えしなんとか片手を自由にする。
「あっ、おい!!」気付いたサテュロスが腕を伸ばす。アテネの手が動く方が早かった。サテュロスの頭に触れて叫ぶ。「眠れ!!」
サテュロスがひゅっと息を吸い、気絶するように床の上に崩れた。アテネは涙でぐしゃぐしゃになった顔を拭ってはだけた衣服の前を隠すと、そのまま部屋の外へ飛び出した。
「……アテネ?」
物音を聞きつけて寝所から出て来たダビィは逃げるように階段を駆け降りていくアテネの姿を遠くに見止めた。
嫌な予感がした。
考えたくない想像が頭をよぎる。ダビィは肩にかけたカーディガンをぎゅっと掴むと、足音を立てずに絨毯の上を進んだ。
廊下の端に、明かりの漏れる部屋がある。ドアは開きっぱなしになって、暴れたように散らかった書棚が見えた。
中に踏み込んで、ダビィは顔を引き攣らせた。半身を曝したまま眠りこける夫の姿を見て、ダビィは最悪の想定が現実になったことを悟った。