第12話 祇園
視界を埋め尽くしたピンクに俺は顔を覆った。風が上着をはらませてはためかせる。
「……桜か!」
俺は顔を軽く拭って言った。風に舞い散った桜の花びらたちが辺りにふわふわと浮遊していた。現代の桜と色かたちは似ているが、晩冬の寒さでも早咲きの美しさを見せつけていた。花弁はより風を受けやすい形に進化したようで、漂う桜の花で空がピンク色に染まっている。
「今年は殊更によく咲いている」
ボアソナードが風流な景色を慈しむように言った。「……さあ、宮に参りましょう。外は花冷えします」
宮は西都の復興が宣言されてから一ヶ月だというのに、すっかり綺麗に仕上がっていた。まるで何年も前からここで政治が運営されていたみたいだ。
「祇園は百年前の旧都でしてな。趣向を凝らして造られた宮の文化的な価値が評価され、さらには政乱や災害で王都が機能停止に陥った際の予備施設として、役目を終えた後も保全されていたのです」
俺の気持ちを察してかボアが説明した。
廊下を慌ただしく行きかう役人たちとすれ違う。
「役人も随分と集まっているな。とても一ヶ月で募ることのできる人数じゃない。根回しが行き過ぎてる……。ずいぶんと前から準備してたな」
「皇族たちが進めていたこと。院はその計画を利用しただけ」
ネヴァモアが淡々と言う。「……あんたは獄門院に付いたのか?」俺の質問に彼女は無言で応えて、回廊の一角で立ち止まる。「着いた」
襖が静かに開き、招じ入れられる。俺は口を閉ざし、奥の高座に坐した院の姿をじっと眺めた。古式ゆかしい黒の狩衣を着て烏帽子をかぶった獄門院は、枕机に腕をもたせかけた気楽な姿勢で俺たちを呼び寄せた。俺は大人しくその前に歩み寄り、座布団の上に座る。
「よく来たね、真白雪。招待に応じてくれて嬉しいよ」
院がゆっくりと身を起こして言う。仕草の一つ一つが洗練されている。公家のそれとも違う、遺伝子から染みついているような、香り立たんばかりの品格の高さだ。
「話を聞きにきただけだ。誘いに応じると決まったわけじゃない」
「言葉を謹んでください。院の御前ですよ」
窘めるような声が、院の横から飛んでくる。院の両脇には2人の女が座っていた。片方は御所でも見た、笠をかぶった背の高い女だ。もう一人の奥に控えた若い女が、躊躇いがちにこちらを咎めた役人だった。「……あれ」俺は彼女をじっと見つめた。白い肌にミルクのような卯の花色の髪。どこかで見たような顔だ。院が彼女を手で示す。
「紹介が遅れたね。彼女はヴァニタスラヴァニラ。少し前まで夷の文官だった子でね、行き場を無くしていたようだから、西都に召し抱えることにしたんだ」
「……! そうだ、クロウの四天王の一人……。空で会敵したやつだな」
俺は思い出して言った。分身を造り出す能力者で、夷叛乱の折、クラマの分身と共に前線に襲撃を仕掛け、クロウの氷結の餌食になったのだ。夷の官僚たちはその後全員投獄されたと聞いていたが、前線で離脱した彼女は運よく落ち延びていたのだろう。
彼女はきっと弱気な瞳に力を込めて睨む。
「貴方はクロウ殿をたぶらかし、死に追いやった男。私は許してはいませんよ」
「まあまあ、ヴァニラ。今日は彼を仲間にするために呼んだんだ。君の気持ちも分かるが、ここは一つ私の顔を立てておくれ」
「……っ、……陛下の仰せとあらば」
院の諫言にヴァニラは渋々と頭を下げた。
「……ご覧の通り、うちは優秀な人材はどこからでも起用することにしていてね。敗れこそしたが、夷の政治方針には厚い民衆の支持があった。彼らのやり方を見習うことにしたんだよ」
「懸命なご判断にございます」
俺の横で、ボアが慎ましく頭を下げた。
「……で、今度は野風の長の俺にも唾つけとこうってわけか? たしかに野風の戦力はでかいし、東国の部隊を押さえれば、王都を挟みこむ形になるからな」
「ふふ、そういう意図もあるけれど……」院はきらりと目を光らせた。「私は君個人の資質に関心があるんだよ。君は旧世界から来た稀人だ。今の朝廷は蔑ろにしているけれど、君の持つ知識は歴史文化的にも学術的にも、計り知れない価値がある。ミーグルとユードラは先走ってしまったけど、私は君を文官として、丁重に迎え入れたいと思ってるんだ。君も戦いばかりの日々から抜け出して、平穏な生活を手にしたいはずだ」
「どうかな。あんたの部下には俺を恨んでる人が多いみたいだし、あまり平和とは言えなさそうだが。それに俺には戦う理由がある」
「理由ね。ふむ。ではその『理由』を満たせるとしたら、どうだい」
「……」
俺の微かな反応を見て、院が立ち上がる。こちらに歩み寄って来て傍に膝を付くと、俺の懐に封書を差し入れて囁いた。「君の愛し君……、リリパット=アリエスタを釈放すると約束しよう」
奥の席で、黒髪の役人が反応する。俺もまた動揺を滲ませて、獄門院を見返した。「……ボアの入れ知恵か」
廃帝はすっと顔を離して肩をすくめた。「私に助言してくれる者は多い」
「ましら殿。陛下は約束を重んじるお方です。これが舌先三寸でないことは御承知ください。現に陛下はこの数週間の間に上層部に働きかけ、空中楼閣の運営者の罷免権を掌握しています」
俺は唾を呑みこむ。院は目線をこちらに合わせたまま、すっと手を差しだした。いつの間に傷を付けたのか、掌にうっすらと血が滲んでいる。
「契約は簡単だ、真白雪。私には血の誓約の能力が備わっている。君がこの手を掴めば、今日から君は私の忠臣だ。ただし後戻りはできない。約束を違えれば、君の心臓は爆ぜる。私もまた、相応のリスクを負う。君の心臓が破裂した瞬間、刹那の一時ではあるが、私の鼓動も止まる。一瞬間とは言え、私は君たちと生死を共にするのだよ」
その瞳は真剣で、偽りが無いように見えた。こいつは今までの奴とは違う。俺は直感した。こいつにとって部下は使い捨ての存在ではないのだ。自身の血肉の一部であり、魂を分けた兄弟なのだ。
この契約は脅迫ではない。相手にその心臓を託すという、その気概を伝える儀式だ。
「…………」
俺は重く閉ざしていた唇を開いて、解答を口にした。
襖を閉ざして縁側に出ると、小さな足音が後ろに重なった。俺は振り返る。ネヴァモア卿の紫色の瞳と目が合った。そのまま彼女は俺の隣に来て歩調を合わせる。並んで歩く形になってしまった。
「院の提案」彼女は前を見たまま呟くように問うた。「……なぜ保留にしたの。真白雪」
俺は彼女の顔をちらりと見る。さらりとした前髪越しに除く面からはいかなる感情も読みとれない。
「……院の言葉が本当か、まだ確証が持てなかっただけだ。不用意に敵の能力に掛かるわけにはいかない」
「敵……。あなたの本当の敵は彼なのかしら」少女が低く返す。
「少なくとも、彼の部下には恨まれてる」俺は肩を揺らして答える。「……君もその口か? 前に俺の死刑に賛成してたろ。政治的な立場からかもしれないけど……」
「あれは個人的な感情。政治的な立場は中立」
事も無げに彼女は答える。
「私怨は私怨できついんだがな」俺は肩を落とす。「だが君はあの場が初対面だったろ? 恨みを抱かれる覚えがない。人違いか何かしていないか?」
「それは……」彼女は自分の感情を探すように視線を漂わせた。「……私にもよく分からない。ただあなたを見ていると、どういうわけか心が乱されるというのは事実。同時に、それはあなたに感じるべき感情ではないとも、本能が告げている。だからどうしても反発したくなる。あなたには」
「ほとんど言いがかりだぜ、それは。……もしかしたら、俺の祖先が何かしたのかもしれないな。代わりに謝っとくよ」俺は肩をすくめて言った。
「かもしれない」彼女はこくんと肯く。
「おいおい、冗談だぜ。俺の祖先……、サジタリオ族はとっくに滅びてる。彼らに会ったことがあるなら、君は何歳だって話だ」
「多分、千年は生きてる」
俺は立ち止まった。少女は訝むようにちらりと振り向いたが、俺が戸惑ったままなのでそのまま歩き去ってしまった。それが彼女なりの冗談なのかどうなのか、それは能面のような表情からは読み取れなかった。俺はぽつんと西の宮に取り残された。