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人獣見聞録-猿の転生 Ⅳ・半獣神たちの午後  作者: 蓑谷 春泥
第2章 乱れ髪
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第10話 噛み傷

 それからひと月ほどは何事もない日々が続いた。だがそれはもちろん平和が訪れたわけではなく、互いに熾烈な睨み合いが行われていたまでのことだった。事実水面下では帝や貴族の部下が次々と「事故」に見舞われていたし、祇園に移り住む皇族や貴族も増え、京の西都は着々と王都から政治機能を吸収しつつあった。帝もまた夷叛乱後の疲弊した王都の戦力を鑑みてか、院に対して直接的な進軍を見せる気配はなかった。長い戦は兵だけではなく民衆にも負担を強いる。仮に院を討ち取ることができたとしても、12民族からの支持を失えば国力は落ちる。他国に隙を見せる事態は避けたいというのが帝の意向らしかった。

 もちろんただやられっぱなしの帝ではない。おそらく水面下では様々な権謀と駆け引きが取り交わされているのだろうが、そのあたりの詳細は俺たちにも明かされていなかった。誰がいつ寝返ってもおかしくない状況だったからだ。

 アテネの方も親族会議は一旦終了ということで、最終決議の投票日までは平常運転とのことだった。とはいえその会議も明後日に迫っている。またぞろ忙しくなりそうな気配だった。

 俺は久々の何もない休日を惰眠とともに過ごし、昼過ぎになってようよう目を覚ました。窓の外から明るい陽射しが斜めに差しこみ、書棚に並んだ本の背表紙たちを照らしている。

今の俺の寝所は、元々リリが書斎として使っていた部屋だ。なんとなく彼女の寝室をそのまま使うのは気が退けたので、俺は二階に、ユーメルヴィルは一階にそれぞれ患者用のベッドを持ち込んで寝室とした。地下の霊安室は封鎖して武器の保管庫として使っている。

「ああ、あ。お早う」

 俺は伸びをしながら階下のダイニングに下った。薬品の類もまとめて診察室にしまったので、保健室のような消毒液の匂いはしなくなっている。ユーメルヴィルはけっこう綺麗好きな男で、部屋をこまめに掃除してくれていた。

「お早うございます、ましらさん」

 食卓の隅に見知った青年が座っている。「珍しく長寝だな」ユーメルヴィルが大きめの鞄を持って横切る。

「モルグか、来てたんだな」

 俺は青年の顔を見ながら言う。キッチンに向かってスライスしたハムとチーズ、調味料をかけた葉菜を挟んだサンドイッチを皿にのせ、食卓に戻った。「だいぶ久々だな。警察隊での活躍は聞いてるよ。滝口入道の下で頑張ってるみたいだな」

 滝口入道は警察隊でカミラタの次くらいに偉い、長官職の男だ。

「殴る蹴るに縁のない人生でしたから、基礎訓練だけで半年も使ってしまいました」

「その割には功績を上げてると聞くぜ。こないだの夷戦でも戦ってるところを見た。偽鬼(デモ・ゴブリン)(スーツ)も使いこなしてるみたいだな」

 椅子を引いて席に着くと、パンにかじりつく。旧世界のそれに比べると、化学調味料の使われていない素朴な味だ。

「実際、モルグはこの一年でかなり腕を上げたぜ。ヒト族は狂花帯があるからな。肉体を鍛えるには長年の研鑽が必要だけど、能力は子供のころから自然と使ってて、即戦力になるやつも多い。任務も熱心に熟してるみたいだし、場数も踏んできてるよな」

 診察室から医療パックを持ってきて、ユーメルヴィルが鞄に詰めた。タオルやら飲料やら、旅行にでも行きそうな荷物だ。「さっきから何の準備してるんだ?」

「今日の夜から警察隊の合同訓練があるんですよ。俺の誘いで、ユーメルヴィルも参加するんです」

「そういやましらには言ってなかったな。何日か家開けるけど、大丈夫か?」

「そりゃ、かまわないよ。宿泊となると、遠征なの?」

「定海の島でやるらしい。けっこうな数の部隊が参加する大規模な演習だ。カミラタやメルトグラハも教官として来るらしいし、かなり本格的だな。腕が鳴る」

「ましらさんは、訓練の程は?」

 モルグがティーカップを傾けながら訊いた。

「ぼちぼちだな。能力開発は進めてるんだが、転移を獲得した時ほど大がかりな成長はない。まあ手数は増えてきたかな」

 俺はパンの塊をもぐもぐと咀嚼しながら答え、机の下に手を伸ばした。にゅっとモルグの眼の前の空間に腕が現れて、ティーポットを掴む。目を丸くしているモルグのカップに、追加の紅茶を注いだ。俺が笑ってポットを下ろすと、ユーメルヴィルがニヤリとして付け加えた。

「手品みたいだよな。俺も最初にやられた時は腰を抜かしたぜ。何しろ寝室にいきなりましらの生首が……」

「いやあ、あの時のユーメルヴィルは傑作だったね」

 俺は肘から先が途切れた腕を掲げて笑う。

「なるほど。腕の断面とこの部分の空間を繋げたわけですか」モルグが感心したように言う。俺は腕を引っ込めてもとに戻した。

「そういうこと。どうも時間を操るより空間操作の方が得意みたいでね。と言っても、決め手には欠ける技だけど」

「そうですか? 相手の心臓を直接握り潰すとかしたら、強そうですけど」

 さらっとモルグがえげつない案を出す。

「いや、それも検討したんだけど」

「検討したのかよ……」ユーメルヴィルがげんなりした表情を浮かべる。

「それについては空間移動を会得した時から考えてたんだ。つまり固体の中に転移したらどうなるんだろうか? ってことをね。物騒だが、相手の体に重なるように転移したら、一撃で勝負がつくのではと思った。こんな具合に」

 ぶちゅっ、と指先で果物の実を押し潰す。

「体内に転移された敵は弾け飛ぶってわけか。だいぶグロい殺し方だぞ」

 ユーメルヴィルが顔を顰める。俺は肯く。

「うん。まあ正直俺も思いついただけで、実践で使うつもりはなかった。そもそも戦うにせよ、殺さずに済ませたいしな。むしろ転移した先にうっかり人がいた場合を心配したんだ。移動先の状況までは分からないし、巻き込んで事故が起きても困る。それに人じゃなかったとしても、壁の中や地中に出てしまったらどうなるのかは把握しておきたかった」

「たしかに、土の中に埋まってしまう可能性もありますもんね。実のところ、物体に重なる形で飛ぶとどうなるんです? どちらかの体が弾けるのか、そもそもエラーを起こしてテレポートできないのか。あるいは空間ごと融合してしまうとか……」

「答え合わせしてみせよう。そこの壁を見ていてくれ」

 俺はダイニングの壁を指さした。二人の視線がそちらに集まる。俺は意識を集中させ、壁の座標に向かってテレポートを発動した。

「——のわっ!」

 バチン! という音と共に壁から弾き出された俺は、空中に放り出されてそのまま床に落ちた。「おお、大丈夫か……?」ユーメルヴィルが横から覗き込む。

「平気、平気」俺は埃を払って立ち上がった。「……このように嵌入性の無い物体の存在する座標に転移しても、そこに留まることはできず、最も手近な空虚な空間まで弾き出されるんだ」

「つまり……、移動できるはできるけれど、さらに少しずれた位置まで退かされるということですね。それなら障害物があっても安心だ」

「ああ。俺も夢見の悪い殺し方を選択肢に入れなくて済むし、咄嗟に飛んでも事故る心配がないから、一番穏当な結末ではあったな。ちなみに液体とか気体みたいに、簡単に押しのけられる物体の中にはそのまま移動できるみたいだ。一通り予知で試行した。後は自分以外の物だけを飛ばしたり、手元に呼び寄せたりできれば、便利なんだがな。今は一緒に飛ぶことまでしかできない」

「……それでも十分、便利な力」

 背後から声がかかる。

ひりひりと空気の張り詰める感触がした。ユーメルヴィルが椅子を倒して立ち上がる。俺は後ろを振り返った。

「素敵なお家ね、真白(ましら)(そそぎ)

 薄氷のような色をした髪の冷たい表情の少女が、ダイニングの戸を押し開けてつかつかと入ってくる。小柄で二つに結んだ髪の与える幼そうな印象とは裏腹に、どこか老成したような達観した様相の瞳が、部屋の中を見渡す。

「帰る家を間違えてるぜ、嬢ちゃん。それとも、呼び鈴の鳴らし方を教わらなかったか?」

 警戒した様子でユーメルヴィルが言い放つ。

「落ち着けユーメルヴィル。彼女は俺と同じ元老院のメンバーだ。たしか……、ネヴァモア=アリエスタ卿だったか?」

俺はユーメルヴィルを諫め、彼女を見た。用向きは不明だ。それに彼女は依然の元老院会議で。俺の死刑に賛成票を入れた一人だ。「……急な訪問だな。俺の住処を教えた覚えもない」

「私がお教えしたのです、ましら殿」

 少女の後ろから、暗い灰色の毛に身を包んだ一人の野風が現れた。紳士然とした和服に身を包み、頭にかぶった和帽を持ち上げてみせた。「……ボアソナード!」俺たちは目を見開く。

「前触れもなくお邪魔して申し訳ありませんな。ネヴァモア卿があまり急ぐもので。非礼をお許しください」

「お久しぶりですね……、コートボアソナードさん。東国に移住したと聞きましたが」

 モルグが腰を上げる。彼らは俺同様、野風の血を混ぜられた(ゴブリン)被害者だ。モルグや俺、アテネは人間に戻ったが、ボアソナードはもとより親猿家ということもあって、その肉体を維持していた。

「昔馴染みの方と旧交を温めるため、ここしばらく王都に出向いておりましてな。今日はましら殿に、その方を紹介しようと思って参ったのです」

「そのネヴァモア卿ってのがそうか?」

 ユーメルヴィルが少女の方をちらりと見て尋ねる。

「いえ、いえ。その方は今、王都にはおりませぬゆえ、少々御足労いただきたいのです。ましら殿の御力なら、千里の道も一息でしょうから」

「遠いのか。ボアの知り合いなら……東国地方か?」

「西国」ネヴァモアが短く答える。ボアソナードが目尻に皺を寄せ、嗄れた声で応えた。

「京の都へ来ていただきたいのです。我が旧き主……、獄門院殿下に会いに」


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