第9話 浅心(アサシン)
御所を抜け街道を歩くましらの背後に、ぬらりと薄い影が揺らめいた。雑踏に溶け込むようにして歩く緑の影法師を気に留めるものは誰もなく、その少女の周りだけ音を忘れたかのように気配が絶たれていた。ユダ、緑髪のその少女は言わば空気であり、色彩のある透明人間であった。
ましらが人気のない道に入り、曲がり角を折れる。御所からある程度離れた。そろそろ自宅まで転移してしまうかもしれない。少女は人垣を抜け、音も立てず足早に距離を詰める。裏路地へ踏み込み、塵と浮浪者の陰から彼の後姿を探した。
「素通りとは悲しいな」
背後から声がかかる。少女はぴくりと足を止めた。付近に人影はなかった。話しかけられているとすれば自分だけである。少女は袖の中にナイフを下ろして振り向いた。
「私だよ。そう警戒するな、話をしに来ただけだ。」
道端に座り込んだ浮浪者が、汚れたぼろきれを脱いだ。隊服姿のメルトグラハが中から現れた。
「……なんだ、先輩っすか」
ユダはナイフの柄を掴んだまま姿勢だけ気楽な立ち姿に移した。「八か月ぶりっすね。夷で散り散りになって以来っすか。お元気そうで何よりです」
「仲間を闇討ちした奴の言うことか? イスカリオテ」
そこまで分かってるなら話が早いっすね、と少女は表情を緩めた。「その偽名はもう用済みっす。何なら今の任務もそろそろ終わりだ。次会う時はヘルダーリンと呼んでほしいっすね」
「新しい名前か。『今の仮面』は比較的穏当で助かるんだがな」
メルトグラハが少女の足元に何かを投げる。地面に刺さったのは銀色の輝きを見せる脇差しだった。「そいつは返す。ましらが感謝していると言っていたぞ」
「ご丁寧にどうも。護衛対象にバレてたんじゃ、この任務はやっぱ潮時でしたね」
ユダは脇差しを拾い上げて、腰元に納刀した。
「……それで? メル先輩はどうやって私を見つけたんです?」
「お前がこの時間ここを通りかかる未来を、ましらが予知していただけのことだ。任務の対象と直接接触するのは具合悪かろうと、私が仲介を任されてな。まったく、昨晩といい、人使いの荒いやつだ」
「の、割には断らないんすね」くすくすとユダが笑う。メルが顔を顰める。
「……東国でのお前の裏切りの件は問わないとあいつは言っていたぞ。この八か月、公家入りしたあいつの身を反帝派から守っていたんだろう?」
「どちらも仕事っすよ。恨まれる筋合いも感謝される道理もない。私も隊長に対して何の感情もありませんよ。まあ露払いを任された身としては、あちこちテレポートで飛び回るのはやめてほしかったっすけど」
ユダは肩をすくめる。メルトグラハは眼帯をしていない方の眼を細めてユダを見つめた。
「一応私はお前の『先輩』だからな。悪いことは言わない、殺しの仕事などやめておけ。先の長い仕事じゃない、遅かれ早かれ命を落とすか、良くても投獄されるはめになるぞ。蜥蜴の尻尾は簡単に切り捨てられるぞ」
「おお、さすがは『先輩』。偽の経歴とはいえ、一瞬でも警察隊を名乗った甲斐があったわけだ。ありがたいお言葉っすねえ」
「イスカ……」
メルトグラハは低く憐れむように続けた。
「僅かな間とはいえ、共に旅した仲だ。お前を牢に繋ぎたくはない」
「ははっ、牢に繋ぐ、ねえ」ユダは乾いた笑いを響かせ、ゆらりと体を傾げた。「先輩に一体、何が出来るんすかぁ?」
ゴミ漁りに来た鳥たちが飛び立つ程の殺気が、刹那に広がる。大きく見開いた目に、光は宿っていない。「親もない、人間としての権利も尊厳もない墓児に選ぶことができるのは、奪うか、餓えて死ぬかだけだ。私は自分が生きるために戦う。そのためには何をしてもかまわない」虚無感に満ちた無表情で、メルを見上げる。「必要ならアンタだって殺しますよ。今。ここで」
「……それは、困った話だな」
メルの背中から、壁を這う血管のように、じわじわと植物の蔓が伸びていく。
ユダが乾いた笑いと共に体を起こす。
「冗談ですよ、先・輩。こんな所で殺し合ったって、一銭にもならないじゃないっすか」
およそ害の無さそうな表情でひらひらと手を振り、踵を返す。「それに言われなくとも、市民権さえ手に入ったらこんな底辺職おさらばっすよ。こちとら浜より浅い忠誠心しか持ち合わせていないんでね。そん時はましら隊長にでも雇ってもらいますかねえ」
そう言い残すとユダはゆらゆらと歩いていき、再び雑踏の中に紛れた。少女は瞬きの間に、人波へ溶けて見えなくなってしまった。
「……行ったぞ」
腕組みをして壁にもたれたまま、メルが言う。屋根の上から飛び降りて、すぐ横へましらが着地する。
「気付いてたかな、俺のこと」
「多分な」メルトグラハが目を閉じて素っ気なく返す。
「ま、お前の護衛もあと数日のようだし……、しばらくは大人しくしているだろう。……それより」
メルがくわっと刮目して睨む。
「貴様、昨晩のあれはなんだ? 乙女の寝室にずかずかと入ってきて、わけの分からん双子と獣を押し付けやがって」
先ほどとは比べ物にならないほどの殺気が向けられる。ましらは慌てて手を振った。
「いや、寝所と言っても警察隊の仮眠室じゃないか。っていうかちゃんと強めにノックしたし、なんならお前の部下の許可もとったし」
「貴様なぁ……、人には昼夜返上で雑用を押し付けた挙句、自分は女と乳繰り合ってたってわけか? さすが元老院様だ良い御身分だなあ」
「い、いやリリには昨日の襲撃の件で話を聞きに行っていただけだ。断じてやましいことなど……」
「だったらその噛み傷はなんだァ!」
メルがましらの肩に指を突きつける。ましらがはっとしたように肩を見る。真新しい噛み傷が襟ぐりから覗いていた。
「貴様の頼みで夜通し仕事をしていた私に、アブノーマルな痕跡を見せつけるとは良い度胸だな? 良いだろう、その喧嘩買ってやる」
メルが蔓の鞭を抜き放ったのでましらは逃げるように瞬間移動した。