おはよう聖女様
────午前十時、目を覚ます。
羽のように軽く、あらゆる感覚が鋭敏に冴え渡る身体は現実比絶好調。つまるところ意識を迎え入れた仮想の身体にて、起床行動は本日二度目のことだ。
「………………あ」
ストンと、極めて普通にベッドを下りて一秒後に起床跳躍を忘れていたことに気が付く。寝惚け頭……というよりも、これは単に、
「……惚けてんな」
昨夜。祝いの日のふわふわ感を、俺もお裾分けされて引き摺っているのだろう。
まだ少し頭が惚けている。
ニアと喋るまま、それぞれの部屋で、しかし世界を移して隣同士で寝落ちしたのは朝何時のことやら。数時間の休眠を経て箱舟の中で目を覚まし、そのまま夢の世界へ二度寝を迷いなく敢行する程度に俺は浮ついていた。
なにをしに来たわけでもない。
無意識にフレンドリストを開いて、誰かさんの名前を探したのも気のせいだ。
「…………」
なにをやってんだか。
仮想世界より、現実世界で隣の部屋の扉を叩けばいいものを────
「……………………」
と思っていたら、コンコンと。
俺が誰かさんの部屋を訪ねる前に、誰かさんが俺の部屋を訪ねてきた模様。フレンドリストを確認した以上、日を跨いでなお頭に居座る藍色でないことはわかる。
そんでもって、一瞥ザッとスクロールした名前の羅列を完全に覚えている頭が即座に『記憶』を引っ張り出すがゆえに……。
「────おはよう。どしたよ、こんな時間に珍しい」
「──おはよ……ん。暇だった、から」
照合からの推測は秒。
扉を開ければ、藍ではなく水色が立っているのは知れたことだった。
「アイドル様は、月曜の昼間は逆に暇なのか?」
「そんなこともない、けど。……大学生は、間違いなく暇じゃない、はず?」
「それはそう。ただ、俺は諸々あって残念ながら不良大学生なので」
「仮想世界の序列持ちなら、こっちを優先するのが世間的に『優良』だけど」
「その価値観だけは、どうにも馴染めないんだよなぁ……」
今日の講義は、迫真のサボり。
名高き【藍玉の妖精】の誕生日会が翌日まで延びる可能性も考慮して、事前に欠席連絡を入れてある。ゆえに、今更になって登校してもアレなのだ。
さておき、言葉の行き交いが我ながらこなれてきている────昨日のことでアレコレ相談に乗ってもらった件も含めて、この妹志望のちっこい先輩殿に今までとは違う意味での親しみが生じ始めているのは……まあ、自覚していた。
全くもって、チョロすぎる。大丈夫か俺は。
「……どう、だった?」
ってことで、まさしく。問わずとも昨日の誕生会について首尾はどうだったのかという旨を察せる言葉、首を傾げるリィナに返すのはサムズアップ。
「喜んでは、もらえたと思う。相談、乗ってくれてサンキューな」
形に残る物は渡せないが、なにか気持ちは渡したい。そんな厄介な難題を主にしてアレコレ一緒に頭を悩ませてくれたのだから感謝しかないのだ。
多忙を極める、アイドル様が、時間を割いて、な。
「ん」
「……はいはい、御随意に」
然らば、お礼は此処にとでも言わんばかり。
頭を突き出してきた妹様の髪を意図して適当にクシャクシャ撫でてやれば、お気に召したのか子供のように柔い頬が余計ふにゃっと緩み溶ける。
……何度も重ねるが、可愛いは可愛い。
俺も結局のところ満更ではないのが、如何ともしがたいところだ。
「ん……──じゃあ、ね」
然して、俺からの報告および報酬を受け取ると伸び一つ。彼女も寝不足なのかなんなのか、欠伸ともつかない声を僅かに零した後にシステムウィンドウを開いた。
おそらく、さっさとログアウトするのだろう。
「あれ、そんだけ?」
「そんだけ。相談に乗ってあげた結果が、どうなったか気になっただけ、だから」
もっと報酬を要求されると思っていたので、少し拍子抜け。ゆえに思わず満足如何を問えば、最近では珍しい良い子ムーブでリィナはサッパリした答えを返す。
やはり根は良い子……と、俺が現状では困った妹に成り果てている年下の先輩殿に感心を抱いていた────のは、約十秒ばかりのことだった。
「……ちなみに、それだけのために、ずっと待ってたとかは、ないよな? あるいは、俺がログインしてくるタイミングを、ピンポイントで予測して、エスパーかの如く同時ログインしてきたとかでは、もっとないよな?」
ふと、湧いた疑問を問うてみたところ。
「………………ふふ」
ログアウトの間際。世界を遷す光に包まれる直前、
「……どっちの方が、嬉しい?」
妖艶な小悪魔の笑みを残して姿を消した妹は、やはり困った存在に成り果ててしまったのだと、残された俺は一人で苦笑いと溜息を零していた。
────そして、困ったことは連鎖する。
鈴の音めいた涼やかなサウンド。メッセージの着信を告げるシステムの声。視界端に点灯した通知アイコンを見て、思考操作で〝手紙〟を開けばソレは……。
【Sayaka】:おはようございます。今、もし時間がありましたら────
聖女様からの、お誘いの文だった。
◇◆◇◆◇
「────おはようございます。ハル様」
「ぁー……お、おはようございます」
指定された場所は、まあ当然というか今の俺たちにとって都合の良い『人目を気にせず集まれる場所』こと鍵樹の迷宮内。
先日に攻略した八十六層の最奥。待ち受けていた階層主【恐悦者 ユミエル】とかいう魔法乱射系洒落乙黒ローブ野郎を討ち取り安地と化したボスフロアだ。
然して、入場からの直通転移を経た瞬間に俺の淡い期待は打ち砕かれた。それがどういう意味かといえば……ニコニコ顔で、俺を出迎えてくれた聖女様の左右。
「突然のお呼び立て、申し訳ございません」
「いえいえ、別にそんな……」
両脇に、兄弟がいないってなわけで。
由々しき事態だ。パーティを組み一緒に頑張っている現状でしれっと断るのもどうかと思い、のこのこ誘いに乗ってしまったが早まったか。
顔を合わせて十秒弱で己の選択にバツあるいはサンカクを付けかけた俺を、
「もしよろしければ、こちらに」
ぺふぺふ、と。
攻略を共にしてわかったことだが、常時グワッと放たれている魔性のオーラはともかくとして……本人のアクション自体は節々で無邪気無垢というか幼い感というか、あどけなさを感じてしまう聖女様が自らの隣を叩いて誘う。
俺を待ちながらウキウキと準備でもしてくれていたのだろうか、床に敷かれている星柄……即ち、少々子供っぽいデザインのクッションシートの上。
慎ましやかな人魚座りで腰を下ろす、自分の隣を。ぺふぺふと。
「…………では、失礼して」
────悪い人じゃないんだよなぁ……と、本当に思う。
一切の悪意も感じなければ、下世話な言い方だが下心的なアレとて微塵も感じられない。そんな相手をいまだに『怖い』と感じ続けているものだから、もう最近では俺の中で謎の申し訳なさが芽生え始めているくらいだ。
ブーツを除装し、男女として常識的な距離を確保し隣へと座る。
「…………うふふ」
さすれば、これ。魔性のオーラも単に俺の思い込みなのではと顧みざるを得ない、純粋に恋する乙女のような……──否、言い換えれば。
暫しの付き合いを以って微かにでも掴み始めているかもしれない、彼女の内心。それを考慮に入れた上で、正しく言い換えるとするならば……。
「……で。なんのお話、します?」
不用意に触れたなら火傷してしまうかもしれないほど、純粋無垢な憧れの熱。
「そうですね……迷ってしまいますが────ぁっ、それでは」
即ち、やはり子供のような無邪気さを以って。
「ハル様は、お歌を好まれるとの噂を聞きまして……!」
「どこから湧いた噂ですかねソレ……?」
今日も今日とて、困ったことに【曲芸師】のことばかりを話したいようだ。
お待たせ。聖女様のターンだよ。
ちなみに人魚座りもとい横座り女性座りは骨盤とかに悪いから気を付けろ。仮想世界のアバターなら無問題だから淑やかさを振り撒いていけ!!!!!