体感温度
今の時代、海どころかプールといったアミューズメント施設に行ったことがない人間というのも珍しいほどではないだろう。
斯くいう俺も何度か海を見た経験はあれど、海水浴みたいな形で水に触れた思い出は今の今まで存在しない。五歳の頃に遭った事故の諸々によるトラウマも関係はしているが、それがなくとも性格的に足を運ぶことはなかったはずだ。
六月の旅行でも、釣りはすれど水には全く触れなかったしな。
だから、そう。同じく海やプールで遊んだ経験が乏しいか皆無という人間がいたとしても、仲間だなってことで大して驚きはしなかっただろうが────
「ぇ、マジで言ってる?」
「……ま、マジで言ってる」
ああいった振る舞いにも陰キャが持ち得ない『才能』が必要なのだと思うが、湖に入り各々のテンションで楽しんでいる三人を岸で眺める残り二人。
そこらの植物を用いて即席で製作した敷物の上。流石に女子の只中で水遊びに興じる気になれない俺はともかく、隣で体育座りをしている藍色もセット。
三人それぞれと仲が良いため自然と混ざるものと思っていたのだが、岸に残り困ったような顔で座り込んだニアに『何故』を問うたのが三十秒前のことだ。
然らば、まあ、流石に驚いた。
「そ、ういうわけです、ので……ちょっと、思いのほか、本気で、その…………」
だってコイツ、水遊びが初めてどころか────
「は…………………………恥ずかしがって、おります……」
「お、おう……大変だな…………」
なんと、そもそも水着を着るのが初めてだという。
様々な意味で俺は勿論のこと、同じ女子に見られるのも大層結構非常に甚だ恥ずかしい模様。男と女で違いはあるだろうが同性とて普段は見せない肌を見せるとあらば人によって抵抗があるだろうし、まあ気持ちはわかる。
人生初水着ともなれば尚更だろう。湖だ水着だバカンスだといった話が出た際から微妙に様子をおかしくしていたが、どうやらそういう理由があったらしい。
納得。で、次に湧くのは疑問と興味。
「えーと…………学校、の授業、とかは」
今更のことだが、俺はニアのリアル情報をほぼほぼ持ち合わせていない。芸術家夫妻の一人娘にして極寒の国より諸々の事情で日本を訪れた異国のお嬢様、くらいのザックリとした境遇を成り行きで知らされたくらいだ。
過去のことなど、全くもってノータッチ。
それゆえ訊ねて良い話か避けた方が良い話かなどの判断基準も割りかしゼロ寄り。なので様子を伺いつつ慎重に問いを口にしてみれば……。
「あたし、あんまり『普通に学校へ通ってた』とは言えない感じでして……」
「ふーん……?」
なにやら、言いづらそうにはしている────けれども、流石に近い付き合いを重ねてきたことで声音から些細なニュアンスを読み取る程度の真似はできる。
多分、これは大丈夫なやつ。
「「………………」」
チラと、こちらを見た藍色と目が合った。
即ち、互いの瞳が映すのは互いの姿。つまるところ俺の視界に広がっているのは、今に至って毎日のように頭を悩ませている〝特別な女の子〟の水着姿。
相も変わらず羞恥で頬を染めているニアを揶揄う真似は、今の俺には不可能だ。
「……めずらし。あたしのこと聞いてくれるの」
「いや、まあ、話の流れ的に自然ではないかと……」
同時に、顔を背けた。
だというのに、一緒に正面を向き直したというのに……それぞれの瞳に映っているのは何故、湖で遊ぶ友人たちではなく互いのままであるのか。
「素直に『気になった』とか『知りたい』とか言ってくれたら、嬉しいんだけど」
「………………そりゃ、普通に、興味はある」
横目を向け合ったまま視線を外せないのは、如何なる力によるものか。
果たして照れで言葉が回りくどくなってしまったダサい俺を笑うものか、はたまた自分で言った通り純粋に嬉しく思い喜んでいるものか。
ほんのり気が抜けた様子で「へへ」と、やはり恥ずかし気な笑みを零す姿から……どうにもこうにも目が離せないのは、もう仕方のないことなのだろう。
「ちっちゃい頃は、あたしママに習って……たわけじゃないんだけど、まあ自然と『絵』を描いてたんだよね。ぁ、子供のお絵かきとは別方向の」
「まあ、わかる」
斯くして語られ始めたのは、彼女のこと。
七百パーセント気を遣われているのだろう、他三人が俺たちを構う気配は今のところナシ。然らば暫くは二人きりの時間が続くのだろうて、互いの羞恥を誤魔化すためにも何かしら『お話』をするのは良策だろう。
興味があると言ったのも、今に至っては嘘でもないのであるからして。
「んでーちょっとアレコレ細かい事情は長くなるから省くけども、普通の子より少し身体を大事にしてたのね? や、してたというか、してくれとお願いされてたというか……その、ほら。色々と周りから手厚く、ね」
「まあ、わかるよ」
過去の出来事についてはノータッチだが、境遇については多少なり知っている。高名な芸術家夫妻かつ本人も才ある……その『才』が如何ほどのモノかは恥ずかしながら無知であるが、それだけの情報から諸々を察する程度は簡単だ。
大切にされていた、ということだろう。
「それでまあ、そう。日本で言う体育の授業に出たこと一度もないんだ」
「成程。ええと、運動自体……」
「や、それは流石に不健康だからって最低限はやってたよ。運動というかストレッチ? みたいな感じだったけどさ。ママと一緒の日課的な」
それは微笑ましい光景だったのだろう。ちっこいニアという時点で愛らしい絵面しか想像できな────ともあれ、親子仲は今も昔も良好なようで何よりだ。
「と、そういうわけでして……」
そうこうして、話が戻ってくる。
「水着、製作依頼も受けたことあるし、勉強したから『作る』のは問題ないんだけど……まさか自分で着ることになろうとは…………って、まあ、その」
初めてのこと。慣れていない。覚悟を要するのも急なことだった。
納得の理由を踏まえて『そりゃそうだろうな』と頷けてしまう羞恥の表情を晒すまま、ニアが無意識か否か身を守るようにパーカーの前を抱き寄せる。
そういう仕草こそ危ねぇのだと、俺の脳内を存分に狂わせていることを知ってか知らずか……丸まるように座りながら、身体を縮めて隣を見やる。
そこにいるのは、他の誰でもない俺だけなわけで。
「………………見てほしかった、から、頑張りました、けど……」
ならば致命打の犠牲になるのも、幸か不幸か俺一人だけ。
「………………………………………………お前は、さぁ……」
これまでも、これからも、何度だって言わせてもらう。
コイツ、本当に、ズルい。
「……、…………────スゥー…………はぁああぁあぁああぁああっ……!」
「ん、ぇ、なん、なにっ、なになに……!」
大きく大きく、深呼吸。
なぜってそんなもん、なにをする気かってそんなもん、決まっている。だってそうだろ、素直に『頑張った』なんて白状されてしまったのなら────
「──────……」
「ぇ、ぅ……」
男だって気合入れて頑張らねば、不誠実だ。
だから、目を向ける。
真っ直ぐ、逸らさず、気付かぬフリもできないまでに顔へ昇っていく熱など強引に無視するまま、健気に隣へ居てくれる女の子へ目を向けた。
真剣に、全霊を以って、死ぬ気で。
「や、ちょ……ゃ…………」
さすれば即座の鏡写し。マジマジと見る俺の目をマジマジと見たニアが、か細い声を上げながら顔を真っ赤にして一層に身体を縮こまらせる。
────が、残念だったな。ファーストコンタクトで『記憶』はバッチリ完了済みだ。パーカーで防御を固めたとて、評価のための必要素材は既に揃っている。
恨んでくれるなよ、そのために頑張ってくれたんだろうて。
「……………………────よし。ニア」
「はへっ、は、はい……」
「一回しか言わないからな。リピートはナシだ、よく聞いてくれ」
「はいっ……!」
さあ、やれ。そら、やれ。羞恥なんざ、誠実を貫き通すのに邪魔なだけだ。
然らば、いざ────
「……………………………………お前が、一番、その……────可愛い」
「………………────────」
俺、死す。ニア、フリーズ。清々しいまでの未来予知的中図。
後は知らん、骨は拾ってくれ。務めを果たして百パー投げやり死屍累々の心持ちで空を見上げながら、もうこれより数時間とて微動だにしない決意を固める。
そして、そんな結局のところ無様でダサい俺が敷物へ投げ出す手の末端。
指先を摘まんだ熱に関しては、知らないフリを決め込むことにした。
夏だろコレ。