夢の中に仕舞うモノ
自らがプロデュースした三泊四日の温泉旅行から帰還した俺を迎えて以降、数えて丸一日以上もの間。随分と、こう、大人しいものだなと思っていたのだ。
だからというかなんというか、そろそろ来るだろうなという予感ってか予知が湧くのは避けられず。例によって前触れなく部屋凸してくるのだろうなとは思っていたのだが……認めよう。お姫様は結局、別方向から俺の予測を上回った。
「………………」
「…………………………」
「……………………………………」
「…………………………………………………………」
午後十時から十一時、大学生基準でも遅い時間と認識できる頃合いへ時計の針が歩む中。例によってリビングへ上げてしまえば、後はいつも通りのこと。
などと、思っていた。
いつも通り、お茶と夜食を要求するという可愛い我儘を手土産に、ゆったり淡々と会話を楽しんで、遅くなり過ぎない内に颯爽と去っていく。
そうなる常を、描いていた。
「「…………………………………………──────────」」
何物も言葉では要求されなかったし、会話とて在りはしない。アーシェはただ、そこだけは普段のように遠慮も躊躇もなく俺の部屋へと上がり────
いつもの安全確保距離を、至極あっさり強制侵犯。さて茶を用意するかとキッチンへ歩こうとした俺の手を取り、彼女の定位置へと引き摺り込んだ。
「…………………………あの、えー、と……」
「……ん……………………」
引き摺り込んで、そのまま。もう十分ほどはこうしているだろうか。左隣にて俺の左腕を抱え込み、肩元に頭を預け、目を閉じ口を閉じ、ずっとそのまま。
彼女にしては、だが。『襲う』と称すには大人し過ぎる、しかしよくある『戯れ』と称すには……なん、というかなぁ? こう……さぁ、ねぇ?
距離と雰囲気が、甘過ぎるというか。
「アーシェさん?」
「……ん…………」
反応なのかなんなのか、その微妙に気の抜けた吐息で応えるのも是非やめていただきたい。あの【剣ノ女王】の気が抜けた声音ってだけで世界的には語手武装に匹敵するレアリティであると共に、俺にとっても致命打と成り得るゆえに。
「あー、と……なんだ。あれか、お疲れモードか」
斯くして、お姫様は答えない。
「いてくれても全然いいんだけど、早めに休まなくて大丈夫か?」
然して、お姫様は答えない。
「………………その、横、なるか? 寝心地にこだわらないんなら、なんだ。日頃の労いやら旅行のお礼やら諸々を加味して〝枕〟を提供しないでもないけど……」
そうして答えず、応えず、ただ静かに穏やかに目を閉じたまま。
それでも俺の腕は決して放さず、身体は決して離れず、確かに起きている気配は宿したまま、アーシェは更に数分の時を俺から盗み────
「…………………………────最近、思うのだけれど」
「っぉ、おう?」
彼女らしい、話し始めも会話の切り口も唐突なそれ。絵に描いたような穏やかで平和な時間と言えど、絵面に比して平穏とは程遠い俺は当然のことビビり、
「「………………」」
反射的に目をやった先。宝石さえ羨むような透明な輝きを宿し、照明にも負けぬ燦然とした輝きを放つガーネットが俺の全てを捕まえる。
捕らえて、離さず、意識までも掴んで放さぬまま。
「私が、全部。攫ってしまったら、いいのではないかって」
よくわからないことを、彼女は言って。
よくわからないまでも、なにかとんでもないことを言っているという確信だけはあって……俺の頭へ不明の混乱を齎したアーシェは、妖しく笑む。
────ぁ、ヤバい。そうは思っても、身体は魅入られたように固まったまま。
「っ……」
間抜け面を晒しているだろう俺の頬へ、そっと。
触れるだけのキスを降らせて、お姫様は再び目を閉じると身体を預けてきた。
「ハル」
「はい」
全くもって頭がついていかず、俺は呼び掛けに反射を返すだけ。さすれば傍から耳に届くのは、悪戯が成功したのを喜ぶような楽しげな笑声が一つ。
そして避け得ず、体温の上昇を感じる敗者を他所に。
「……たったの三日と少し。だと、思ったのだけれど」
「…………」
「一日も経たない内に、もう少し短くしておけば良かったって、思っちゃった」
首筋を、柔らかな真白の髪が擦る。
「四ヶ月前……イベントの時は、まだ平気だったのに」
その仕草は紛れもなく、彼女らしからぬ素直な『甘え』で。
「〝恋〟って不思議で、とても厄介。私、我慢強い方だと思っていたのだけれど」
最早、身体は固まってなどいない。俺は今、この瞬間、
「────思いの外……我慢、続けられないかも。どうしようかしら、ね」
「……────」
世界が溶けてしまうのではないかと思うほど、一切を包み隠さず〝熱〟を告げる女の子に、行動の意思を跡形もなく溶かされてしまっただけ。
零された微笑は自嘲の意か、はたまた俺を微笑むものか。
「……………………………………………………………………っ、……っ!」
いかん、と。
これは、いかんと。
思った。
思って、このままではマズいと────否、違う。
このままは勘弁ならんと、謎の使命感とも負けん気ともつかない、形容し難い感情の濁流が突き動かすままに。そうするべきと、根拠のない確信を抱くままに。
「ん、ぅ」
おおよそ聞いたことのない声をアーシェが零したのは、誰あろう俺のせい。
いっそ耳を塞ぎたくなるほどに可愛らしい声音を世界に聞かせてしまったのは、俺が躊躇いを蹴飛ばして伸ばした右手のせい。
思えば、彼女にはしたことのなかった行動。ソラやニアには幾度となく……と言うと実にアレだが、事実として幾度となく機会があった行動。
頭を撫でる、ただそれだけ。
誰よりも高みにいる彼女には縁遠いものと、俺が勝手に思っていることだけ。
然して、勝手な思い込みは正解か否か。
「……、…………」
慣れぬ感覚に驚いたように見えたのは、気のせいか否か。身動ぎして、目を開き、彼女が目を閉じて以降も視線を逃がさずにいた俺の瞳をガーネットが映す。
そして、
「は、は……」
「……ふふ」
二人同時に、笑った。
片や、形容し難い感情を形容し難いまま抱えながら。片や、今度こそ『なんでもないこと』に驚きを抱いた自分を愉快そうに笑いながら。
「…………あのさ、アーシェ」
「……うん。なにかしら」
夜の秘め事、二人きり。言葉ではなく視線だけで密約を交わして、今が終わったら自分たちさえも〝この時間〟を忘れると誓い合いながら。
「────俺も、何度も思ってるよ。それ」
「…………そう。……そう、なんだ」
それとは果たして、どこに掛かる言葉なのか。言わなければ、伝わるまい。だからこそ、自由に取ってくれとばかりに必要な言葉は付け足さない。
互いの瞳を見つめるまま。
彼女は俺の腕を放さぬまま。
俺は彼女の髪を丁寧に梳くままに。
「困った、わね」
「本当にな」
なんとでも受け取れるように言った。そして、どの言葉へ掛けようとも嘘と真を併せ持つように言った。たとえ無敵のお姫様とて、読み切ることなど不可能だ。
だから、結局、今の俺が渡せる事実は一つだけ。
「大切ばっかりで、身体も心も足りないばっかりだ」
いつまでも矛盾を生むことなく、積み重なっていく感情だけ。
それに限っては偽りなく、今となっては伝えるに大した躊躇いも覚えぬ想い。誰が見たってバレバレなのだろうし、秘める意味さえないだろう。
考えている。
考えている。
ずっと、大切に、考え続けている。
────〝答え〟はもう、手を伸ばせば届きそうな距離に見えているから。
「……ハル」
「なんでしょう」
今度は反射ではなく、体温を落ち着けながら理性と共に供した言葉。それをやや満足気に、併せて少々不満気に愉しみながら、再び目を閉じた姫が言う。
「私は、あなたの味方よ」
「…………」
「あなたの〝答え〟が、どうあっても。きっと、ずっとね」
「………………………………………………、……それは、さ」
「えぇ、そうよ」
秘め事の延長。忘却の保証。熱に浮かされた彼女に押し流されるまま辿り着いた泡沫の夜にて、問いを思い切ろうとした俺を当然のように制す声。
「だから仮に、全員を振って一人きりなんて未来は、あなたには来ない。諦めて」
そして、まさしく似合わない冗談を口ずさむ声。
俺はそんなアーシェに、どんな言葉を返したものかと少しだけ迷った末。
「異次元のお嬢様方を三人とも袖にするとか、俺にできると思う?」
「…………ふふ。無理ね、絶対に」
ただ惚けたように、最も有り得ない未来を二人で笑い飛ばすことを選び取った。
結局なにしに来たのかって、なにもしに来てないよ。
ただ寂しくなっちゃったから、甘えに来ただけなんだよ。
ちなみに選択肢を誤った場合は低確率で食べられてた。