局面は刻一刻
人間ってのは適応する生き物だ。未知を既知に変換していくことで、怖れや畏れ驚きその他の感情に折り合いを付けながら慣れていく生き物だ。
俺はソレを、おそらく一般的な十八歳青少年よりも深く理解している。
バイト戦士として短期から中長期など隔てなく多くの職場を体験したことから始まり、睡眠時間を削り必死の勉強三昧を日課として馴染ませたことや、果ては仮想世界に飛び込んだ末に至った『序列持ち』だのなんだのという特別な立場まで。
誰しも時間や回数を重ねられる事柄であれば、大抵のことには慣れていくだろうという学びがあるのだ。そう、例えばそれが――――
「――んでまあ、五歳児が海に真っ逆さまですよ。覚えてるのは結構な高さから海面に叩き付けられたんでメチャクチャ痛かったのと、どんだけ藻掻いても下へ下へ身体が沈んでいく感覚…………そして水中に差し込む陽の光で色とりどりに輝く毒々しい海藻の森と、体感で目の前数センチを過ったデカい魚の感情が無い目玉」
「…………な、成程。それは確かに諸々トラウマになるのも致し方ないと思いますが……ええと、春日さん」
「はい」
「巧みな情景描写や感情の籠もった語り口は意外な才能を感じられて結構ですが、お嬢様が怖がっているので控えめにしていただけると……」
「はい? え、あ、ごめん。大丈夫だよマジすぐに家族が飛び込んでサルベージしてくれたし、特に怪我とか後遺症とか大事にはならなかったからな?」
「既にその事件が〝大事〟という話なのですが」
「まあ、今となっては遥か昔の笑い話なんで」
「トラウマを引き摺っている時点で、笑い話にもなりきれていません」
「泳いでるのも、池にいる小魚とかは平気なんですけどねぇ」
「大きな鯉などは?」
「あれ系はペットだと暗示を掛ければ平気です」
「人はそれを『平気』とは言いませんよ」
「ちなみに、俺は水族館に行ったことがありません」
「えぇ、そうでしょうとも……」
――――とまあ、そんな具合に。
思いの他に聞き上手なメイドさんと食卓を囲む……なんて非現実ファンタジーも、繰り返し回数を重ねていれば単なる日常へとすり替わっていく訳だ。
「いろいろとお話を伺って思いましたが……春日さんは、どうやら徹底的に神様から愛されているようですね」
「その目は揶揄っている目ですね。その愛とやらの内訳を聞きましょうか」
「人生を通して波乱万丈な目に遭い続けてなお、最終的には無事というあたりが……こう、お気に入りの玩具にでもされているような」
「うちの母上みたいなこと言わんでください」
週末の土日に、俺が四谷邸へ通うようになってから暫く。ソラだけではなく当然このメイドとも言葉を交わす機会が増えて、そっから打ち解けるまでは早かった。
いや以前までも少々おかしな打ち解け方はしていたが、お世辞にも『仲良く』はなかったから確かに関係性は変わったと言えよう。
勿論、積極的に歩み寄ろうとしたのは俺の方……と言えば、そんなこともなく。
「お母様のことは、お聞きしても?」
「んえ? あぁ、全然。うちの母上はバイタリティの鬼みたいなアレで……」
こちらのメイド、もとい夏目さん――――もとい、斎さんの方から。
そもそもの話、この『お呼ばれ』自体が彼女の「他の御二方とは一つ屋根の下で、私のお嬢様だけ仲間はずれ継続というのは如何なものでしょう。埋め合わせを要求します」という抗議文を端に発するものであるからして。
で、是非もなく要求を受け入れ土日のお呼ばれを定例化してみれば……。
「まあ、華道の先生……素敵ですね」
「小学生の頃に見学へ行ったきりですけど、カッコよかったっすよ」
肝心な『お嬢様』を差し置いて、絡んでくるのはメイドメイドメイド。それに関して、俺も初めは「えぇ……」と引き気味だったのだが――
ちらと横目を向ければ、そこに在るのは〝家族〟と俺が仲良さげにしている様をずーっっっっっと嬉しそうに眺めている『お嬢様』のニコニコ笑顔。
いやまあ、当然というか、このメイドが彼女を差し置く訳がないというか。
「斎さんも似合いそうですね、華道とか茶道とか」
「うふふ……実は昔、嗜む程度に経験済みです」
「なんでもやってんなこのメイド……え、斎さんの昔って何歳頃の話――あっハイ今のなしで黙りますから満面の笑みやめてください怖い怖い」
「まあ。乙女の微笑みに対して、なんたる言い草でしょうか」
「――――ふふっ……」
彼女が俺を構う理由も、別にそれが全部という訳ではないだろうが……とにもかくにも、この場は俺のためでも斎さんのためでもなく。
献身的なメイドが、大切なお嬢様のために用意した贈り物であるゆえに。
◇◆◇◆◇
「――――今日も、斎さんとばかり楽しそうにしてましたね」
「会話に入って来ず無限に隣でニコニコしている誰かさんが原因だと思われ……」
で、それはそれとしてやきもちは焼くというね。乙女心は複雑怪奇である。
ダイニングから場所を移して、ソラの部屋――――ではなく、俺の部屋。
気付けば用意されていたメイド曰く「春日さん専用ゲストルームです」とのことで、自由に使ってくれて構わないと言われてしまい押し付けられた事実上の自室。
未だに使ったことのない、そして少なくとも暫くは使う予定のないベッドを含め、テーブルやら棚やら最低限の家具が揃えられている他――
「…………ちょっと待って、エグいエグい。情けを、ソラさん情けを」
「チェックメイト」
山のように用意されていたのは、アーシェの言うデジタルゲームではなく正真正銘のアナログことボードゲームの山。なにやら徹吾氏の趣味とのことで、四谷邸に収集されているそれらが遊び道具として棚やら収納壁やらに詰め込まれている。
そんなものが用意されていたとなれば自然、夕食後の時間はソラとそれらゲームに興じて過ごすようになったのだが……。
「いや勝てねぇ……なんだこのお嬢様…………」
「えへへ……」
四谷ご令嬢がガチで鬼強過ぎて、オセロのような気安いゲームからチェスのような小難しいゲームに至るまで未だに一勝も出来ていない件について。
徹吾氏の影響で昔から触れていたという話は聞いたものの、それにしたって強過ぎる。素人の俺がアレコレ言えたものではないかもしれないが、間違いなく戦略系の才能があるとしか思えない無敵っぷりだ。
例えば将棋とか、飛車角桂香の六枚落ちでボコられた時は唖然としたよね。
ソラさんが言うには「流石に簡単じゃなかったですよ」とのことだが、終始ほわほわ楽し気な笑みを崩さず指し切った彼女を見ていた俺に真実はわからない。
…………思い返したら悔しくなってきたな。
「ソラさん、将棋をやりましょう」
「……二度とやらないとか、言ってませんでしたっけ?」
「男の子にも二言くらいあるんだよ」
「そんな堂々と格好悪いことを言われましても……」
そちらも徹底的にボコられたチェスボードを脇に避け、ソラの言う通り「二度とやらんぞ」と泣きながら押入れの奥へ封印した将棋盤を引っ張り出す。
薄っぺらいアレではなく、立派な〝脚〟の付いた値打ちの聞けないアレである。
対戦形式は、勿論のこと――――
「いざ尋常に、六枚落ちでお願いしますッ……!」
「…………プライドを砕いてしまった私が言うのもなんですが、ハルはそれでいいんでしょうか。いえ、あの、全然いいんですけど」
いいもなにも、ハンデがあろうとなかろうとサッパリ勝てない事実は揺るがないのだもの。それならソラも楽しめる形式にした方が互いに幸せだろう。
なにかの間違いでマグレ勝ち出来ないかなーとか、愛らしい年下の少女相手に男児ならざる小賢しいことを考えていたりなど断じてない。
いっそもう六枚じゃなく八枚落ちとかにしてくれないかな……さておき、
「あのさソラ」
「なんですかハル」
パチリパチリと互いに歩を動かしつつ、隣の相棒に話しかけた。
「こういうのって、やっぱ対面の方が雰囲気というかなんというか……」
「余計なことを考えてないで集中してください。あと七十三手で詰みですよ」
「ちょっと待ってよ流石に冗談だよね!?」
ぎゅうと俺の片腕を拘束しながら向かいの駒を動かすと共に、嘘か真か恐ろしいことを宣う少女に戦慄を覚えつつ一手一手と局を進める。
正直なところ、こちらは十手先どころか一手先すら朧げなのだが……どうもソラさんは、当たり前のように十手どころではない遥か先を視ているらしく――――
なんというか、こう、わかった気がしないでもない。
仮想世界で【Sora】が時たま発揮する、強みの根源的なアレが。
「……ハル」
「ん」
着々と負けへの道を辿っていると察せられる盤面を睨みつつ、至近から届く声音に反応を返す。半身から伝わる体温がより近くなっても……二重の意味で〝今〟は、逃げる訳にいかないため受け入れるまま。
「今日も、帰っちゃいますか」
「それはまあ。明日も選抜戦ですし」
「朝一番で、斎さんが送ってくれますよ」
「早朝から調整に入るつもりだから、朝一番じゃ済まないだろうし」
「むぅ……」
言外に「泊まっていかないのか」と問うソラさんに、事実百割の言い訳を渡すと……それはまるで、抗議の如く。
魔法のような手際で大駒を掻っ攫われた俺は、苦笑いを浮かべる他ない。
「あのねぇ……徹吾氏の〝お赦し〟が出てるのは理解してるけど、流石に『娘』さん二人の家に男が泊まっていくのは如何なものかと思うんよ」
父親の心境を察する意味でも、俺の遠慮というか常識の部分的な意味でもな。
「ニアさんやアイリスさんだって、一つ屋根の下じゃないですか」
「その屋根の下、千歳親子もいるからセーフ」
あと、互いに意識し合って宿舎内では逆に平和状態が維持されてるから。
「むぅ……!」
最近、ソラはストレートに俺へ我儘を叩き付けてくるようになった。
そして俺は、彼女のそんな一生懸命に頑張っている様が愛らしく思えて仕方ない。二人きりの時など真っ向から甘えてくるのを躱す気にさえなれず、その辺りの諸々がバレて他二人に半眼を向けられるなんてのも常態化している。
だから、まあ、つまるところ……。
「ちなみにソラさん、あと何手で詰みですかコレ」
「六手ですっ……‼」
「風前の灯火だとッ……!?」
いろんな意味で〝危ない〟から。
ストッパーのいない自宅にお泊りは、勘弁していただきたい所存という訳だ。
風前の灯火、あと何手で詰みか。