眩い合わせ鏡
時が経つにつれ輝きを増していく臨時講師さまの魅力云々は置いといて、精神力を振り絞り徹底的に集中すること早二時間。
今のところソラやニアが乱入してくる気配もなく、アーシェも自分の言葉は違えず誘惑ムーブを抑えてくれたおかげで勉強の方は劇的に捗った。
いやね、先日のノート解説で舌を巻く以前から彼女の『説明上手』はわかりきっていたことだが、その性質が学生の勉学に転用されるともうただの教師。
〝教える〟という観点からして大学の先生方にも勝る……とは流石に言わないが、マンツーマンで教えを受けられるというシチュエーションもあって俺の疑問解決&理解促進の速度が通常講義の比ではない。
で、そんな極めて有意義な時間を過ごした末のこと。
「……ん、大体わかった」
一旦そこまで――とでも言うように。自分の前に広げていた教本をパタリと閉じながら、アーシェが小さく呟いた。
ここまで度々あった、理解を違えている点の指摘とは異なる雰囲気だ。
なにが「わかった」んだと隣を見れば……どうしたことか、こちらに向けられている顔はどこか残念そうな無表情だった。
「単純に、時間が足りていなかっただけね。勉強の仕方もわかっているし、基礎を身に付ける速度は人並み以上。応用問題に対処する思考能力も問題ない――これなら、すぐに追いつけるはず。授業はそれほど必要ないかもしれない」
「マジかよ、急に褒め殺しか」
言われていることは一つ残らず嬉しいことに違いないが、正直なところ手放しで喜べるかと言われれば否だ。
「謙遜ではなく事実として、アーシェの教え方が神懸ってただけだぞ。いや本当に、一人でやっても短時間でここまでの成果を感じたことって経験ないし」
「仮にも講師役を果たしたのだから、単独での勉強効率と比較されても困る。今の二時間で十を覚えたとすれば、普段のあなたは集中さえすれば三を覚えられるはず――特に勉強が得意ではない〝普通の人〟は、一としてね」
「そりゃまあ、人よりできる自覚くらいはあるが……」
入学を果たした大学が大学なんでね、流石にここで「いやいや普通だよ」なんて頭のおかしい言葉を吐くほど常識はバグっていない。
ついでに、これは別に煽てる意図など一切ない本心だが――
「俺の普段が三なら、今の二時間は三十だったよ。素直にメチャクチャ教えるの上手いなって感心しっぱなしだったぞ」
「……そう。褒められるのは、嬉しい」
と、それっぽい反応だが俺の称賛を受けてもアーシェの表情は平常運転。口にした通り嬉しいのは本当としても、照れるまではいかなかったようだ。
「――ともかく、そういうこと。講師役を投げ出すような言葉に取らないでほしいのだけれど、あまり根を詰めて勉強する必要はないと思う」
「うーん……二度目だけど、マジで? 確かにアレコレわからなかった部分の理解は進んだけど、全体で見れば氷山の一角だぞ?」
「心配いらない。私も二度目だけど、あなたの性質は大体わかった。次からはもっと効率的に教えてあげる――……なに?」
思わず笑ってしまうと、不思議そうに首を傾げられた。
いや、俺もほぼ無意識で特に深い意味はなかったのだが……。
「あー、なんていうか……そっちこそ地味に謙遜を挟んだりするのに、最終的には〝自信満々〟に行き着くってのがアーシェらしいなと」
もちろん良い意味で――と締め括れば、数秒を掛けて俺の言葉を呑み込んだ後、
「そういう私は、好き?」
「っ……、…………」
彼女が唐突に放った危険弾を真正面から受けてしまい、言葉に詰まる。
答えなんて決まっている。けれども、それはまだ口にはできない言葉。誰へ向けるべきか決まっていない心で、口にはしたくない言葉。
既にパートナーとしてソラへ贈ってしまった件については……それまでのグダグダを清算するための〝禊〟として、必要であったのだと許していただきたい。
「………………そこで『嫌い?』じゃなくて『好き?』が出てくる辺りが、本当に心の底からアーシェらしいよ。だからまあ……俺は、イイと思う」
「……ふふ、躱された。でも、あなたはそれでいい」
「良くは、ないと思うんだよなぁ……これでも努力はしてるんだ――け、ど……」
サラリと髪を撫でられて驚きつつ横を向けば、いつの間にやら音もなく立ち上がっていたアーシェにふわりと――
極自然で柔らかな微笑みを向けられて、時が止まった気がした。
「前に言ったこと、今も撤回するつもりはないの」
「…………」
「あなたは、そのままでも世界の誰より魅力的――だったのに、更に先を向いて一生懸命に走り出した。少なくとも私の目には、あなたの全部が眩しくて堪らない」
耳を伝い下りてきた細指が、頬を撫でる。
「頑張るあなたも、努力するあなたも、迷っているあなたも、全部が素敵に見えて、困ってしまうくらいなの。……だから、私には気を遣わないで」
息を吸い込む唇から、目を離せなくて、
「全部、見せてほしい――――どんなハルにも、きっと私は恋をするから」
正直、動きかけた身体を押し止められたのは奇跡だったと言えよう。
「――ハル、顔が真っ赤よ」
「そうだね、誰かさんのせいでね……」
「ふふ……勉強は、一旦ここまでにしましょうか。続きは夜に」
熱を確かめるように頬へ添えていた指を名残り惜しそうに離しながらも、お姫様の余裕は一ミリたりとて崩れることなく。
久方ぶりと言ってもいいだろうか。完膚なきまでに即死判定を喰らった俺を残して、アーシェは静かに扉へと向かう。
そうして、最後に一度だけ振り返ると。
「ハル」
俺の名前を呼んだ彼女は、どこか蠱惑的な表情と共に、
「いくら私でも、自信が無いことを堂々と訊いたりはできない」
「……、…………」
トドメの一発を最後に、颯爽と部屋を去って行った。
いや、本当にさぁ。
アレを相手に、どう攻勢に回れって言うんだよ。
おそらくここの攻守が逆転することは未来永劫ない。