それもまた異世界
『ごもわ』
「『ごめん』て言ってるもんだと判断して返すけど、まあ気にすんな」
アーシェに案内されて個室に辿り着くや否やベッドに倒れ込んだニアが、枕元へ転がしたスマホに覚束ない手つきで言葉を映す。
本人は迷惑を掛けていると気に病んでいるのだろうから無理もないが、心身共に弱々しい様子が不憫だったので努めて軽い言葉を返しておいた。
いや、重度の車酔いってキツいよな。俺も小さい頃にバスで激酔いした経験があるのでよくわかるが、マジで身動き取れなくなるから笑えないんだよ。
「――いろいろ持ってきた。置いておくから、平気そうなら試して」
と、一旦どこかへ行っていたアーシェが言葉通り『いろいろ』を抱えて戻って来た。ベッドサイドラックに置かれたのは、飴やチョコレートなど一般的に車酔いに効くとされているオヤツ類の他マグカップが一つ。
鼻を抜けていく涼やかな香りから察するに、ミントティーだろうか。
『ありぁとー』
「どういたしまして。吐き気が無くて頭痛や眩暈だけなら、横になっていればすぐに良くなるはず。落ち着いたら下りてくればいい」
うつ伏せのまま頷こうとして枕にズブズブめり込んでいくニアに微かな笑みを零し、なにを思ったか優しく髪をひと撫でするとアーシェは静かに去って行った。
なんというか、本当に今日はわかりやすく笑うものだ。
自分から行きたいと言った旅行に来ているのだから当たり前と言えば当たり前だが、やはり随分と機嫌がいいのは間違いないらしい。
「さて……ま、ゆっくり休みたまえ。昼飯は用意しとくから」
具合の悪いとき傍に人がいると、全力で脱力できずに疲れてしまったりするものだ。病気ならまだしも軽い体調不良なら、そう大袈裟にするものではないだろう。
ということで、アーシェに続いてサラッと部屋を後にしようとしたところ――
「…………えーと?」
ガッと袖を掴まれ歩みを止められてしまったので、具合が悪いはずの犯人へと目を向ける。声と視線で要件を問うが、残念ながら返答はなし。
代わりに提示されているヒントは、グイグイと俺の手を引っ張る彼女の手が目指しているであろう方角だけ……しかしながら、
「………………わかったわかった、じゃあ三回だけな」
総合すると、なんとも分かり易い要求に苦笑を一つ。袖を引く我儘な手をペイっと払い、目的地だったのであろう頭に掌を置いた。
はい、いーち、にーい、さーん。
「ハイおしまい。んじゃな」
サッサッサッと、あまり意識しないように手早く軽く髪を梳いてやる。
なんとも物足りなさそうな気配が顔を見ずとも強烈に伝わってくるが、アピール全部に全力で応えていたら際限がなくなってしまうので線引きは必要だ。
今にも唸り声その他で不満アピールを畳み掛けて来そうなニアを残し、今度こそスルッと部屋を出る。一週間もあるんだ、ペース配分は考えないとな。
だから、そう。
めちゃくちゃフワフワでスルスルでヤバくてヤバかったなんて頭の悪い感想群は、早急に制圧して平常心を取り戻すべし、である。
◇◆◇◆◇
「――――で、なんだこれ。デカいレストランの厨房か?」
宿泊用の個室が主らしい二階から下り、一階部分の調理場にて。アーシェに連れられて来た俺は開口一番、純度百の呆れ声を上げていた。
建物の外観に違わずどこもかしこもピッカピカなのは勿論だが、とにかく設備の規模が予想を遥かに上回っている。それらしい床材が敷かれた調理スペースの広さは相当なもので、機材も充実しており間違いなく『業務』に足る代物。
やろうと思えば軽く三桁の席を回せるレベルだろう。十人単位で調理師を放り込んでも動線に困ることなく広々と動き回れるはずだ。
「元々、身内で大きなパーティを開けるように設計したらしいから」
俺の疑問にアーシェが答えてくれるが、そういう問題ではない。いやそういう問題なのかもしれないが、世界観が違い過ぎて上手く呑み込めない。
「それにしても、ここまでの規模をパーティ会場に直接ぶち込むもんか?」
「私の家は、趣味人の家系」
「あー……なるほど。料理好きも数多いると」
「そういうこと。とはいえ、結局あまり使われてはいないのだけれど」
「えぇ、維持費ぃ……」
いろいろ考え出すと平民メンタルが暴れ出しそうだ、ここは適当に思考放棄が吉。ウルトラアメニティと割り切って活用させてもらうとしよう。
「それじゃ、私は設備を見回って確認してくるから……お昼、期待しておく」
「お任せあれ――と言っても、あの様子を見るに俺は手伝い役になりそうだけど」
「それはそれで」とまた一つ微笑を残し、アーシェはスタスタと何処かへ去って行った。外から見ても中から見ても結構な規模の建物ゆえ、一通りを見回ってくるとなればそれなりの時間が掛かることだろう――と、いうことで。
「随分ご機嫌だけど、料理好きってのは聞いてた以上だったか?」
「っ、あ、えと、えへへ……」
パタパタと足早に厨房各所を確認した末、五つも並んでいる大型冷蔵庫の中身を熱心に覗き込んでいたソラに声を掛ける。
普段から家事全般を進んで手伝っているが、とりわけ料理に関しては好んで趣味のように熱を入れている――というのは、いつだか本人から聞いた話である。先程までの様子を見るに彼女の『好む』は俺の想像以上だったらしい。
調理場の見るべきポイントを的確に気にしているところからも、ちょっと慣れている程度のスキル持ち……なんて次元ではなさそうだ。
「予想していたよりずっと凄くて……その、少しはしゃいでしまいました」
よほど夢中になっていたのだろう。声を掛けると驚いたように肩を跳ねさせた少女は、冷蔵庫を閉めつつ振り返ると恥ずかしげに笑う。
「まあ、気持ちはわかる」
ジロジロ観察した訳ではないが、以前ソラの家へ上がらせてもらった時に四谷邸のキッチンは目にしている。一般家庭と比べれば大きく快適そうな造りではあったが、リビングに併設されたそれは『常識的な範囲』に収まるモノだった。
となれば、彼女の反応も頷ける。料理好きってのは基本、広々とした動きやすい調理場にテンションが上がるものであるからして。
「冷蔵庫の中身も凄いですよ」
「ほほう。どれどれ……」
アーシェだけではなく、ソラさんもソラさんで朝から滅法テンションが高い。もはやデフォルト状態の如くキラキラしているお目々を微笑ましく思いつつ、俺は彼女が示す『冷蔵庫』の扉を開けて軽率に中を覗き込み――
「――――…………」
そっと身を引くと、慎重に『宝物庫』の扉を閉めた。
「なんだろう、視界がバグったかな……」
「現実世界ですよ、ここ。気持ちはわかりますが」
俺も最近は高級な品を口にする機会が多くなっているが、それにしたって一般人の枠をギリギリ逸していないという自負がある。
ほぼ毎日のようにお世話になっているリストランテ千歳も、常軌を逸した高級食材尽くしみたいな方向性ではなく『腕』を重視した食事方針だからな。
それゆえに――
「なんか、展示品みたく綺麗な箱に入った肉の塊が大量に見えたんだけど」
度を越えた高級食材なんかは、全くもって見慣れていない。
「ハルが開けたのは『お肉エリア』ですね。こっちには魚介類、こっちにはお野菜、こっちには果物……ええと、大体どこも似たような景色ですが」
「……俺、畏れ多くて料理できないかもわからんね」
「あ。あとハルが来るまで先に覗かせてもらったんですけど……」
言いつつ、顔を引き攣らせている俺の視線をソラの人差し指が誘導する。彼女がピッと指差した先の壁には、なにやら重たそうな密閉扉があった。
「冷凍保管室の中も、大変なことになってます」
「れいとうほかんしつ…………えっと、質的な話で?」
「その、どっちも、ですね。質も、量も」
…………………………。
「ええと、一週間だよな? 聞いた限りじゃ、俺たち入れて宿泊人数十人にも満たないはずなんだけど……」
「そう、ですよね……どう考えても使い切れる量ではないと思うんですが……」
「………………」
「………………」
うん。
うん、まあ、アレだな。
「よし、昼飯作るか」
「あ、はは……そう、ですね」
もう考えるだけ無駄というか、一々リアクションを取っていたら日が暮れる。
この際ツッコミ事項は悉くスルーすることにして真顔で言えば、隣の相棒はなんとも言えないお顔で同意しつつ「えいっ」と冷蔵庫を開け放った。
家のキッチンも面積三倍くらいにならないかな。
本編とは関係ありませんが、最近投稿時間がガタついている点からお察しの通りちょっと諸々忙しいです。不本意ではありますが暫くは基本十二時の不定時投稿になるかと思われますので、ご了承くださいませ。