扉を叩く
――――ノックの音が響く。
扉の奥にいるのが誰かも、用件もわかっているけれど、身体が動かない。
重たくはないのに、むしろ中身がそっくり無くなってしまったのではないかと疑うほど頼りなく空虚なのに、気力が湧いてくれない。
どうせ、いつかは起き上がる必要がある。部屋を出る必要がある。また仮想世界に飛び込む必要がある――彼と、顔を合わせる必要がある。
感情や言葉は胸の内で大洪水を起こしているというのに、涙として表出してくる気配はない。悲しくて泣いたのは、辛くて泣いたのは、いつが最後だっただろうと。意味のない思考を浮かべながら、力なく天井を眺めていた。
……声は、出せると思う。なら、頑張ろう。
「…………ごめんなさい、少し体調が悪くて」
扉越し、様子を窺っているであろう斎に声を掛ける。機械仕掛けの寝台に横たわったままで、少し苦しげな声音が出てしまったが都合がいい。
「――食欲はありますか?」
返された労わるような声音に罪悪感を感じながら、沈黙をもって言葉を伝える。そうすればしばらくして、気配は部屋から遠ざかっていった。
後で、明日、謝らないと。
そう思いながら、身体を引き摺るように【Arcadia】からベッドへと寝台を移す。枕を抱き寄せて、毛布を身体に巻けば――
「…………」
眠っているわけでもないのに、意識はすぐに暗闇へと沈んだ。
そして、どれくらい時間が経ったのか。再び響いたノックの音に顔を上げれば、部屋の中は真に暗闇で満たされていた。
扉を叩いたのは、また斎だろう。慣れ親しんた彼女の気配は姿が見えずとも察せられるし、そもそも家に彼女以外の人間がいるはずもない。
「――そら」
耳に届くのは、予想通りの声。呼び掛けて、それ以上の言葉を送ってこないのは……『心配だから、返事がなければ入りますよ』の合図。
拒むか否か少し迷って、結局言葉を呑み込んだ。
ゆっくりと静かに扉が開かれ、ベッドの横に気配が近付く。
横になっているでもなく蹲っているのは失敗だったと、上手く頭が回っていなかったことに後悔するも……言葉ではなく、ただ優しい温もりが降ってきた。
髪を梳かれて、心が軋む。ごめんなさいと言いたいけれど、併せて心配いらないとは言えそうもなかったので、口を噤んでしまう。
しばらくの間、斎はそらの頭を撫で続けて、
「……突然ですが、旦那様がお帰りになるそうです。明日の早朝にはまた出られるそうなので、顔を合わせるなら今夜しかありません」
どうしますか――と、如何を問われる。
父が家に帰ってくるのは、いつぶりだったか。最後に顔を合わせたのは、いつのことだったか。未だぼんやりと沈んだ頭で考え、
「…………お迎え、します」
なによりも〝家族〟を優先して、そらはぽつりと呟いた。そんな少女を、斎は慈しむように一度抱き締めて――
「それなら、そのシワくちゃな制服は着替えておくように。最低限、男性に見られて恥ずかしくない格好はしておいてくださいね」
努めて、だろう。いつもの遠慮ない声音に戻った斎の気遣いが、今はむしろありがたい。普段通りをして、普段通りに戻らなければいけないのだから。
「お腹、空いていませんか?」
「……あとで、いただきます」
どこまでも自分を甘やかす〝姉〟へどうにか微笑みを返せば、斎はもう一度そらを抱き締めた後に部屋を出ていった。
……温もりをもらった身体は、ほんの少しくらいなら動きそう。
眠っていた訳ではないから、大袈裟に髪を整え直す必要もないだろう。男性云々と言っていたが……あくまで、相手は父親なのだから。
ともあれ、皺だらけになってしまった制服ではみっともないのは確か。毛布から抜け出て、上着のボタンを外しながらベッドを下りると、
「――…………」
口から零れ出た音に自嘲を浮かべながら、クローゼットを開け放った。
――――そして、またノック。
車の音は聞こえていたので、父親が帰ってきたのであろうことは気付いていた。それゆえすぐにでも降りて行こうとはしていたのだが、先んじて扉の前までやって来た気配に首を傾げてしまう。
気配が二つ。様子のおかしい自分を案じて、斎が父を部屋まで連れて来たのか――普通に考えれば、それ以外に可能性はなかった。
けれども、おかしい。気配が違う。扉越しに伝わってくる雰囲気が、父のそれとは似ても似つかない。
しかしながら、
「――――っ……」
それを知っているそらの身体が、震えた。後退ろうとしても動けないほど、畏れと混乱が足を縫い留めた。
そこにいるはずのない誰かの姿が、既に扉の奥へ描かれていた。どんな顔をしているのかは、わからないけれど――わかることが、ひとつ。
再びノックの音が響き、ゆっくりと扉が開けられる。
その奥から、姿を現したのは、
「――へっ? ちょ、待っ!? あなた乙女の部屋の扉を勝手にッ」
「あら、私だってまだまだ乙女ですよ?」
「なに言ってんだそういう問題じゃ――な、い………………あー」
見知った姉と賑やかな会話を繰り広げながら、姿を現したのは、
「え、と……あの…………や、やあソラ、さっきぶり」
決して歩みを止めない、ソラのパートナーだった。
そうして、なんとも言えない表情でぎこちなく笑ってみせたハルに――
「…………………………………………か、」
「か?」
「 帰 っ て く だ さ い ! ! ! 」
ただただ爆ぜた混乱と驚きに従い、少女は力一杯に叫ぶと勢いよく扉を閉める。
へたり込みながら跳ねる鼓動を宥めつつ、壁の向こうへ耳を澄ませば――
「だから言いましたよね? サプライズイベントが罷り通る雰囲気じゃないって、俺なんども言いましたよね!?」
「あらあら~……あれだけいろいろと大言壮語を宣った春日さんの言葉を信じた結果なのですが、私の信頼が行き過ぎていたのでしょうか~?」
「このメイド……‼」
築いた壁の向こう側で飛び交っているのは、いつの間に仲良くなったのかもわからない知り合い二人の喧騒だった。