君のもとへ
夏目さんとの〝お話〟を終えてから、しばらく後。再び千歳さんの世話になり部屋へと戻ってきた俺は、リビングのソファに腰を下ろしてぼんやりしていた。
カチ、カチ――と、それっぽい音を鳴らすことなく。静かに滑らかに回る壁掛け時計の秒針を眺めながら、繰り返し場面を描いては演じる自分を評し続ける。
何度シミュレートしても、何度あれこれ言葉を変え再生しなおしても、スマートに片が付く未来が見えなくて真実お手上げ状態だ。
ままならない……というのは、正しくないだろう。元来、これこそが本来の俺なのだから。いくら外面を取り繕おうとも、根っこの部分は変わりゃしない。
それでもきっと、決して『変われない』ということはないはず。
足掻けば足掻いた分、前でも横でも後でも――無様にバタつかせた足が、どこかへ着地さえしてしまえば、ほんの少しくらい。
見える景色は、変わるはずだから。
――――『三十分後』
震動したスマホに表示された端的なメッセージを見て、重たいはずの……しかし同時に、すっかりと軽くなった気さえする腰を持ち上げる。
リビングを出て、廊下を抜けて、寝室に入れば、出迎えたのは二つの寝台。
並んでいるそれらの内、機械仕掛けの箱舟へと歩み寄る。そうすれば『起動を主に伝える』ただそれだけのために存在しているのではと思う、あってないような極々微かな作動音が響き始めた。
もはや心身共に慣れ切ったVR筐体に身体を横たえ、閉じられた天蓋に輝く文字の羅列が浮かび上がる様を見送って。
――――Ready――――
――――Stand by――――
「ドライブ・オン」
口に馴染んだ起動鍵を、静かに呟いた。
◇◆◇◆◇
学校から帰り、夕食の支度に取り掛かるまでの僅かな時間。
一度ログアウトを挟むことになる手間を惜しまず、当たり前のように【Arcadia】へ飛び込むのは――ひとえに、会いたい人がいたから。
その人の顔を見ている間、その人の隣に並んでいる間、他の誰でもない〝自分自身〟でいることができていたから。
過去形になってしまったのは、いつからだろう。
振り返っても目を逸らしたくなる『自分』でもなく、何者でもない『自分』ですらなく……自らの手で感情を抑え付けて、息ができなくなってしまうほど雁字搦めの『自分』を作り出してしまったのは、いつからだろう。
仮想世界から足が遠ざかっているというわけではないし、それは許されない。
あの世界へ身を投じた理由は、まだ一つとして掴めていないから。掴むどころか、欠片や残滓は指先を掠めすらしてくれないから。
行先もわからず、迷子だったのは初めから。
だからこそ、あの日に出会った眩しい〝無垢〟に縋った。
道標として、寄る辺として、居場所を照らしてくれる篝火として――頼り依存していれば、こうなることなど時間の問題だったのに。
目が逸らせなかった、ずっと。
輝きに釘付けだった、いつも。
どうしようもなく、不思議なくらい、怖くなってしまうほどに、なんの抵抗も躊躇いもなくお互いに手を伸ばしてしまった。
だから、足を止めた。竦んで、動かなくなったのだ。
『彼』は私と同じだ――だから、違う。
次から次へ溢れ出るような未知と驚きと戸惑い……そして、おそらくは忌避。それらと相対して、しかし彼は足を止めなかった。
誰がなんと言おうと、たとえ彼自身がなんと思っていようと、私だけはその〝歩み〟を見ていた。見落とすことなどなく、確かに瞳に映していた。
彼は、絶対に停止しない。迷っても、蛇行しても、時に後退しようとも、動き続けることだけは決して止めようとしない。
弱音を吐いても、落ち込んだ顔をしていても、自己嫌悪に耐えかねて天を仰いでいたとしても、ずっと心の中で『どうするべきか』を模索している。
すぐには変われずとも、変わる努力を諦めない。
誰かに一歩踏み込むこと……誰かを一歩踏み込ませることを厭う私たちは〝同じ〟なのに、彼と私は決定的にそこが〝違う〟のだ。
離れたくないのに、離れたい。
触れたいのに、触れられない。
声を聞きたくないのに、名前を呼んでほしい。
笑顔が見たいのに、誰かへ向けられた笑顔が見たくない。
「…………どうすればいいのかな」
そんなこと、わかっている。
どうするべきかなど、最初から、全部わかっている。ただただ儘ならないのは、身動きが取れないのは、自分自身を自分勝手に押し隠しているのは――
「……ドライブ・オン」
悲しくなるほど臆病な、救いようのない四谷そらの自己欺瞞だ。
綴ります。