降り積もった空虚
「――で、初体験した【剣聖】様のご感想は?」
「死んじゃうかと思いました」
「いや、その通り死んだんだけどもさ」
時計は回り夜手前。ゴールデンタイムを目前に溢れかえり始めた人波の中を歩きながら、連れ立つ相棒と愉快な感想会を交わし合う。
「俺が言えたもんじゃないけど、あの人もアレで思考加速なしだからなぁ」
「なにをどうすれば片手間で千本の剣を払い落としながら、音速で動く人の相手ができるんでしょう……刀一本で」
ほんとそれ。ちなみに現時点では音速にまで到達しちゃいないぞ。切り得る手札を全部切っても、最大瞬間速度で時速四桁ちょい程度が限界だ。
そこまで行ったら、流石に俺でも素じゃ乗りこなせないだろうし。
「まあ手合わせの件はともかくとして、あの『鬼ごっこ』に関してはアバター操作向上に死ぬほど有効だぞ。仮想世界での体力トレーニングと戦闘脳育成に併せて、身体の隅々まで考えて動かすから細かい動作の総見直しができる」
そして、アレに関しては俺がういさんから免許皆伝を頂戴している。相手がいないとできないのが唯一の欠点だが、そこはこのパートナーを存分に使ってくれて構わないということだ。
――という旨を伝えれば、
「ハルは本当にハルですね」
「ちょっと待って今なんで怒られたの俺」
キョトンからのジト目と並行して贈られるのは珍しい……こともないかもしれない、僅かばかりの批難。
え、なに。まさかとは思うけど接触目当ての下心とか思われてないよね? その辺は流石の俺とて当然なにかしらの配慮を考え……ソラさん?
ほんの少しだけ速度を上げて、スタスタ歩いていく相棒を追い掛ける。
隠密外套を纏い、妙な様子で縦に並ぶ小柄な二つの影。向けられる視線は数多なれど、流石に声だけで誰か判断できるような者はまだまだ存在していない。
そして仮に気付き声を上げる者がいたとて、今の俺はそっちへ意識を向けることはなかっただろう――なぜなら、
ここ数日……というよりも、ここ最近。ほんの少しずつ募っていた些細な違和感が、追い掛ける小さな背中を見ている内に。
ようやく気付けるほどまでに降り積もり、顔を出し始めていたから。
◇◆◇◆◇
――――最終的には、冗談で切り抜けられたと思う。
戸惑い気に掛けるパートナーの心配を優しく丁寧に振り払い、綺麗な笑顔を残して別れることができたと思う。
そうして、今。
少女は自己嫌悪に呑まれて、機械仕掛けの寝台から起き上がれずにいた。
「…………、……」
ここ数日、いつにも増して感情のコントロールが上手くいかない。そうなる原因はわかっているけれど、抑えられない理由がわからない。
いいや、それもわかってはいる。でも、理解できない。
自分の心が、ぼやけて見えない。
「………………………………………………いや、だった」
整理するために、胸の中で一番手前にあった言葉を吐き出すように零す。
顔を合わせられたときは、嬉しかった。
どこかへ行こうと誘われたときも、嬉しかった。
お願いに一も二もなく頷いてくれたときも、嬉しかった。
でも、その後。
二人きりが崩れた瞬間、嫌だと思ってしまった。
それから、ずっと、ずっと――
なんでもないフリをして、いい子のフリをして、笑顔を貼り付けていた自分が、どうしようもないくらい苦しくて息ができなかった。
肥大化している。
目を逸らせなくなっている。
いつか心に被せた蓋なんて、とっくに行方知らずだ。
不意に、いつも通りの、なんでもない気遣いに触れて。たったそれだけで、馬鹿みたいに感情の手綱が手から離れてしまうくらいに。
〝――――〟が、溢れて止まらない。
ただパートナーとして、堂々と隣に並び立って戦えば薄れると思っていた。それで満足できる、そう自分に言い聞かせられると思っていた。
現実は、全くの逆。共に駆けるたびに、並んで剣を振るうたびに、どうしてもいらない気持ちが募ってしまう。欲しくない感情が積もってしまう。
あの二人に限らず、相棒に向けられる親愛の目――その全てが、
「――――」
名前を呟く。
忘れてはいけない、その『名前』を。
そうすれば、途端に〝熱〟が消えて……代わりに身体を満たすのは、心が軋むような寒気と、行き場も意味も存在しない無為な悔恨。
心と同じく、軋むような身動ぎを検知して寝台の天蓋が開く。静かに起き上がった少女は、口にも心にも言葉を浮かべないまま――
上着を羽織り、夢の箱舟から逃げるように部屋を出ていった。
カウントダウン。