月下の師弟
ソラと別れてからしばらく後。俺はもうすっかり通い慣れた道を辿り、先日から始まった『用事』のためとある場所へとお邪魔していた。
穏やかな風が吹き、サラサラと笹の擦れる音が耳に心地よい。
竹林の中にぽっかりと空いた空き地から空を見上げれば、そのために誂えたかのごとく大きな真円の月が望める絶好のお月見スポット――
そんな『道場』の縁側で湯呑を抱え、頭を空っぽにして息をつく。
まず間違いなく、全世界に羨む人間が続出するであろう最高級の和みタイムと言えよう――それは当然、隣におわす大和撫子様も特大の要因として。
「今更ですけど、俺のせいでお休みの時間をずらしてしまっていたり……」
「心配せずとも大丈夫ですよ。土曜日はいつも、少し遅くまで起きているので」
弟子の心配を受け流し、お師匠様は灰色の髪を揺らしてふわりと微笑んだ。
こういった特別扱いは褒められたものではないだろうが、ういさんはもう俺の中で他の女性と『別枠』にカテゴライズされてしまっている。
お綺麗なのは勿論として……それとはまあ、別の意味で。俺が彼女の笑顔を正面から直視するのは、この先も難しいままなのだろう。
――なんというか、敬愛すべき保護者的な立ち位置を感じてしまうから。
「ういさんって、とにかく健康的な早寝早起きのイメージがありました。夜九時までに寝て朝五時に起きる、みたいな」
「ふふ、用事がないときはそんなものですよ。ですが日曜日は松風の道場がお休みなので、土曜日は以前から夜更かしの日なんです」
「ほう……失礼ながら全く想像がつかないんですけど、ういさんって夜更かしをしてなにやってるんです? 読書とか?」
「晩酌です」
「へぁっ!?」
「冗談ですよ?」
び、ビックリした……いや彼女の年齢的には全然問題ないんだけども、とにもかくにもイメージが合わなくてだな……。
おそらくは狙って揶揄われたのだろう。ういさんは俺のリアクションを見て、控えめながら満足そうにくすりと笑っていらっしゃる。
「お祖父ちゃんもそうなのですが、酔えない体質なんです。大勢の場で雰囲気を楽しむくらいはできますが、一人でお酒を嗜んだりはしませんね」
ははぁー……なんかこう、大人だなぁ。
「夜は、いつも動画を見ています。【Arcadia・Archive】……ですね」
「…………………………なるほど」
「ほんの少し、失礼な間を感じましたよ?」
「ごめんなさい」
『剣聖様が晩酌』と同じくらい『剣聖様に機械』が想像できませんでした。
「こう見えて、私も立派な現代人ですから。人並みにぱそこんくらい使えます」
「ちなみにスマホは」
「此度の四柱は、見所に事欠きませんでしたからね。随分先まで、夜更かしの供に困ることはなさそうです」
「なるほど。時にお師匠様、スマホは使いこなしておいでで」
「――さぁ、できましたよ」
あっ……ハイ、すいません引き下がります。
会話の間もずっと〝作業〟を続けていたお師匠様が、膝の上に載せていた【早緑月】を鞘に納め直してから手渡してくれる。
毎土曜日の夜十一時、こうして刀の手入れのため時間を頂戴しているのだ。
あぁ、もちろん俺が頂戴しているんだとも。断じて、お優しいお師匠様から定期的に顔を見せるよう圧を掛けられたわけではないぞ断じて。
「ありがとうございました」
「こちらこそ」
なにゆえ『こちらこそ』? 前の機会にそう訊ねてみたら、それはもう嬉しそうに『大切に使ってくれていますから』と返されてしまった。
そりゃ当然、俺の中では間違いなく〝たいせつなもの〟であるからして――
「……と、なにか?」
受け取った刀を膝の上に抱えながら、灰色の瞳にジッと顔を見られていることに気が付いて問いを一つ。
すぐには答えず、彼女はそのまましばらく俺の顔を見つめた後に口を開いた。
「……また少し表情が柔らかくなったと、安心していました。あなたは人に恵まれているから大丈夫と、心配はしていないつもりだったのですが」
「っ――」
伸ばされた手を反射的に避けようとした身体を、一瞬の思考の末に縫い留める。脳裏に浮かぶ二つの顔には、いつか機会があれば懺悔するとしよう。
額を撫でた小さな手が、前髪を優しくかき上げる。求められているものを察して視線を合わせれば、師の瞳はどこまでも穏やかに俺を見ていた。
「結局、つもりでしかなかったようです。今更になって……安堵してから気付くだなんて、私もまだまだ若輩ですね」
お恥ずかしいです――ういさんは柔らかく微笑んで、背伸びして届かせていた手を静かに引いた。
少しだけ、言葉に迷い。
「…………持論ですが、『弟子』ってやつは」
彼女が俺のフォローなど必要のない御人と知りながら、口を開く。
「『師匠』が見てると知っているだけで、頑張れるもんですよ、きっと」
このくらいなら、正しく弟子から師への言葉で納まるだろうと思い。
「ういさんが俺のこと見守ってくれてるのは、言われずともわかってますから。だから俺も、わざわざ『助けてください』なんて言いません」
そう締め括れば、小柄なお師匠様はわずかばかり驚いたように瞬きをして――
「ハル君は、悪いお弟子さんですね」
先の笑みより、ずっと自然な笑顔を見せてくれる。
俺のフォローなどなくとも、彼女が自分で顧みて前に進める人であることはわかっている。けれどまあ……一言二言で『反省会』を短くできるのであれば、恥を忍んで持論を語る甲斐もあるというものだ。
「確か『悪い生徒』が最上級の誉め言葉だったと記憶しているので、同じく褒められたものと思っておきます」
「ふふ……そうですね。それでは、ご褒美に――」
「膝枕は勘弁してください」
「……そういう先手を打つのは、意地悪なお弟子さんですよ?」
「俺も、日々成長中ですので」
師弟の仲は、変わらず良好。
じわりと熱の染みる湯呑を手に、並んで会話を続けながら――大きな月の下で行われる〝夜更かし〟は、和やかに時を重ねていった。
ある意味で得難い関係性。