近くて触れられない距離
「んじゃねおやすみー!」
「おやすみなさい」
「おう、おやす――……いやはえーよ」
返事も待たずに仮想世界を去っていった小っこいの×2に苦笑いを零しつつ、手振りをすかされ中途半端に挙げた手を下ろす。
そうは聞かないレベルのハイテンションな「おやすみなさい」の残響はすぐにも消え去り、円卓の間はシンと静けさで満たされた。
場所を移したのは、単に即時生成空間の訓練場では完全ログアウトができないから。別にこれからまた次のイベントへ移行する訳ではなく――
「明日もあるし、俺たちも解散にしようか」
「はい……」
疲労も相まって眠気が限界らしい相棒を現実世界に見送ったら、俺も最後の用事を済ませて本日は締めといったところだ。
「このままここで落ちて大丈夫だぞ。次にログインするときは、城の入口の広場に出るはずだから」
「わかりました……」
なんというか、返ってくる言葉がことごとくぽやついている。
ソラと夜遅くまで一緒に過ごしたことは数えるほどしかないが、直近だと祝勝会の日などは真夜中でもここまでではなかったはず……やっぱり寝不足か?
今日の朝、眠たそうにしてたもんな。
「――っ……と? あーほれほれ、現実世界に帰ってから寝なさい。お嬢様ともあろう者がはしたない……って、例のメイドさんに叱られても知らないぞ」
船を漕ぐ……まではいかないが、隣で目を擦りながらフラついたソラを咄嗟に支えつつ、結局あれ以来は遭遇していない謎メイドを思いながら言う。
聞けば、件の夏目さんはソラの『お世話係』という話ではないか。詳しい関係性までは知らないが、これで小言などを頂戴することになれば可哀想である。
それがなくとも、プレイヤーは守れる範囲で〝普通〟を守った方がいい。
仮想世界で寝落ちしようと、【Arcadia】は普通にベッドで眠る以上の安眠を提供してくれる――なんて、世間の通説も知っちゃいるけれども……。
最近わかってきたが、現実と仮想の適度な線引きは大事だ。二つの世界を行き来する俺たちは、どちらに傾倒し過ぎても心身のバランスを崩しやすいから。
「わかってます……ハルこそ、夜更かしをして寝坊しちゃダメですよ」
「俺のことは心配ご無用――とは、前科があるから言えないんだよなぁ」
まあ、それはともかく。
「ソラさん」
「……」
どうかしたの?――とは、わざわざ言葉にするまでもなく。視線で渡した問い掛けは、ふいっと目を逸らされ気付かぬフリをされてしまった。
眠くなると手が温かくなる人が多いけど、それって仮想世界のアバターにも反映されるもんなのかね?
少なくとも今、俺の左手小指は誰かさんのせいでぽっかぽかなんだけども。
五秒、十秒と、そのまま沈黙が続いて――
「…………あ、の……ごめんなさい。特に、なにというわけでは……」
すっと手を離したソラが、寝惚け眼はそのままに困ったような顔で半歩距離を取る。俺も俺で困っちゃいるが、内心ハテナを浮かべているのはお互い様らしい。
もしや、お別れが寂しいとか?――なんて、以前までならば言えただろうが。
「今日はお疲れさま、ゆっくり休むんだぞ」
「……はい」
今の俺は、努めて穏やかにそう口にするのが精一杯。
パートナーとしてソラを大切にするというのは、今まで通り変えるつもりはない。偽装婚約者として彼女を守ることだって、俺なりに微力を尽くす所存。
しかしながら、今まで通り〝線〟を踏み越えないのは当然として、今まで以上に俺は気を付けなければいけないのである。
相棒へ向ける言葉が――〝信頼〟の枠から外れないように。
……最近、ソラが手を繋いでくることが減った。それが『何故なのか』なんて、確認しなければわからないほど馬鹿ではないつもりだから。
だから、今夜のこれも――
「おやすみなさい」
「あぁ、おやすみ」
寝惚けた彼女の、気の迷いということにしておこう。
今の俺はきっと、そうするべきだと思うから。
◇◆◇◆◇
――――――……
――――……
――……
「――ばか」
現実世界へと帰還した直後。
暗闇の中で横たわるまま、口から零れ落ちたのはそんな一言だった。
「ばか」
どうして別れ際、急に寂しさを感じてしまったんだろう。
「ばか」
今までにないほど、一日中ずっと一緒に過ごしたから?
「ばか」
我慢しているのに、気付けば手が伸びてしまうのはどうしてなのだろう。
「……ばか」
――困らせてしまうだけだと、わかっているのに。
彼が自分に触れるのは、ゲームプレイ上で必要な場面だけ。そしてそのことを、ソラ自身も正しく理解しているという相互の信頼があるからこその距離感だ。
言うまでもなく、ふれあうために手を伸ばす自分とは訳が違う。
甘え癖も、大概にしなくてはいけない。覚悟も資格もない自分が彼にベタベタ甘えていては、本気で〝恋〟に臨んでいる人に申し訳が立たないから。
いっそ本当に、妹分と割り切って甘えてしまえれば、なんて――
「…………なんなの、私は、もう」
そんなことすらも覚悟できない自分が、世界中の誰よりもわからない。
そうして、苛立ちともつかない些細な癇癪で脚を叩けば――身動ぎを検知したVR筐体が、「さっさと出ろ」とでも言わんばかりに上蓋を開けてしまった。
「……寒い」
やや冷たい空調の風に薄着の肌を撫でられて、少女はやつあたりのようにペチッと筐体を叩いた後、すぐに「ごめんなさい」と機械に向かって頭を下げる。
なにをやっているのだろうと、余計に自分が滑稽に思えた。
まだまだ心が未熟な子供というのは自覚しているが、それで自分を許せるほどに単純な頭をしているわけでもなく。
寝て起きたら忘れている――そんな奇跡が起こればいいのにと思いながら、ソラは勢いよくベッドへ飛び込み毛布を被った。
斎に見られていれば間違いなく小言を言われてしまう、はしたない所作で。
――あぁ、おやすみ。
「…………」
最後に聞いた優しい声音を、無意識に思い返してしまい……それだけで頬が緩んでしまう自分に、心底『どうしようもないな』と呆れながら。
『おやすみなさい』――誰にともなく呟いて、少女はそっと目を閉じる。
静けさに満ちた暗闇を微かに騒がせる、吐息が寝息へと移ろうまで――
今日もまた少しだけ、時間が掛かりそうだった。
助走は、長ければ長いほど